低残渣食

入院してから食事はずっと低残渣食であった。残渣(ざんさ)という言葉は初めて目にする言葉である。辞書で調べてみると「食べ物のかす」という意味らしい。

病院での低残渣食は,お粥と食物繊維なしのおかずからなる。

お味噌汁はトウフの具のみが入っている。ジャガイモ,里イモ,カボチャはすりつぶしている。トウフや麩(ふ)がよくメニューに入っている。肉や魚は形のあるものが出る。野菜はつまみのパセリ以外は全く出ない。デザートとしては,リンゴや桃のすりつぶしたものが出た。ちょうどクリスマスの日にはお祝いとしてカボチャのプリンが出された。

低残渣食をずっと食べていると,便が固まらず軟便の状態で出てくる。便秘にならずにすむのはいいのだが,便意をもよおしてからすぐにトイレに駆け込まないとちびることがあるので注意を要する。

妻が病院の低残渣食を見て,家での献立の参考になるとしきりにうなずいている。

いよいよ私も病人食のお世話になる時期にはいったのだなあとつくづく思う。

(2019年12月28日 土曜日 晴れ)

病院の長い夜

肺炎で入院して初日は,その前の日の吐き気と咳による寝不足の反動で,ぐっすり眠っていられたが,数日経つと昼間もベッドの中にいるため,夜なかなか眠れない。

夜10時に抗生剤の点滴があり,その後眠りにつく。気が遠くなり,尿意で眠りから覚めトイレに行った帰り,ナースステーションの時計を見るとまだ12時である。ぐっすり眠った感覚があるのに2時間しか経っていない。再び眠りに入る。再び尿意を感じトイレに行くが,時刻はまだ夜中の2時である。

それからなかなか寝つかれない。

東畑開人氏の「居るのはつらいよ」を読んだせいか,ふと統合失調症の発症メカニズムについての空想が頭をよぎる。統合失調症は多くの場合青年期に発症し,その傷は生涯残る。

シロクマ(意識)とクジラ(無意識)のたとえでいうと,シロクマとクジラがともに赤ん坊のころは,海岸で仲良く遊んでいた。そのうちだんだん成長していってシロクマは陸上をウロウロするようになり,クジラは深い海まで潜るようになった。そうこうしているうちに気温は低下していき,海には氷が張りだした。シロクマはもう,クジラのことを忘れてしまった。

多くの場合,氷はだんだん厚くなり,再びシロクマとクジラが会うことはない。しかし何らかの気象変化が起こって,氷の一部が溶け出すことがある。そうすると成長した巨大なクジラが水面に現れ,シロクマはパニックになる。シロクマはクジラが何者か分からず,右往左往する。

シロクマとクジラの争いはその後もずっと続く。シロクマには自分の力で,海面を凍らせることはできないのだ。

(2019年12月26日 木曜日 曇り時々雨)

ある友人のこと

肺炎で入院して2日目である。息の苦しさは少し和らいだ。

仙台にいたころ,研究室の後輩の一人と親しくなった。その友人は学部4年で卒業し,電機メーカーに勤めていた。そして一年ほどたって大学に戻って来た。民間企業がどうも合わなかったみたいだ。

大学で教職免許を取るのだといっていたが,私の下宿に来ていろいろ雑談していても,かつての彼とようすが違い,やけに陽気になっていた。

その後音沙汰がなくなり,しばらくの間音信不通になっていた。私が彼に連絡をとったのか,彼から連絡があったのか今では分からなくなっているが,私の帰省の折に彼の故郷に寄ることになった。

彼の母親の話では民間企業に勤めているときに統合失調症を発症したらしく,今は自宅近くの病院で治療を受けているということだった。

私が教職についているときも何度か研究室の電話で彼と長話をした。

東畑開人氏の「居るのはつらいよ」(医学書院)を読んでいて,彼のことが思い出された。

本の中に出てくるシロクマ(意識)とクジラ(無意識)の話がわかりやすく,彼もクジラが大暴れしたときは,必死でクジラをなだめていたのだろうと想像した。

彼とは長い間連絡を取っていないが,今どうしているのかと思い,なつかしみの気持ちが満ちてくる。

(2019年12月24日 火曜日 快晴)

繋がる

鼻と喉の炎症がずっと続いていて,特に寝ているときに苦しかったのが,今朝はだいぶよくなって自分でもよく眠ることできたような気がする。普通に眠れることがほんとうにありがたいことだと思った。

岸政彦の「図書室」という本には「図書室」という小説と「給水塔」という自伝的エッセイが収められている。それぞれの文章のなかのちいさなエピソードはおなじくらいの濃さのある話になっているのに,一方は実(み)のある話に聞こえ,一方の話は実のない話に感じるのはどうしてだろうと考えていた。

もちろん小説の方がよく練れた文章で,エッセイの方は片手間で書いた文章だからといってしまえば身も蓋(ふた)もない。それで寝ているとき,もうすこし丁寧に考えてみることにした。

そうして出た結論はこうである。

小説のなかのちいさなエピソードは現在に繋(つな)がっているが,エッセイのなかのちいさなエピソードは現在に繋がっていないからではないかということである。

小説に出てくる40年前のエピソードは,忘れ去られてもいいくらいのエピソードであるのに,それが重要に思えるのは主人公の現在の生き方や考え方がそのエピソードと繋がりを持っていると読者に感じさせる文章になっている。

(2019年12月18日 水曜日 曇り)

ボケる方法

岸政彦の「図書室」(新潮社)は大阪に住む50歳の中年女性が,自分が10歳くらいのときの公民館の図書室で過ごした日々を回想する小説である。

そのなかで,ボケる方法についての主人公と男子小学生の会話があって,おもしろい。すこし長くなるが引用する。会話は男子小学生の,太陽が膨張して地球が滅亡するというウンチクに関するものである。

「熱いなそれ」
「熱いやろな。めっちゃ熱いと思うわ。飲み込まれるはるか前に,もうめっちゃ暑なんのちゃうかな地球。いまより十倍くらいのやつが空に昇ってくるねん」
「今日めっちゃ寒いからちょっとおっきなってほしい」
「せやな。でも何千度にもなるで」
「わかってるやんか。ボケたんや。こないだ教えたやろ。いっかい乗るねん」
彼は真面目に,あっそうかごめん,と言って,言い直した。
「ほんまやなー,今日寒いから太陽おっきなってほしいな。って,死ぬわ!」
「死ぬまでが早い! 死ぬまでが早すぎ!」
「どうしたらええねんな」
「もっと途中で,そうそう,おっきなって温度上がって,何百度とかになって,って言ってから,死ぬわって言わんと。いきなり死んだらあかん」

大阪の小学生だからこそ成立する会話であろう。いまではテレビで毎日芸人がボケまくっているから,誰の耳にも親しみを込めて聞こえるが,ボケる会話はそうそうできるものではない。

私も生涯,一度もボケたことがない。

(2019年12月15日 日曜日 晴れ)

老病死

十日町に行ったとき,私の不注意でもらった風邪が長引いて,なかなか治らない。昼間はあまり困らないのだが,寝ていると粘性のある鼻水が気管支の方に流れ込むようで,セキをしだすと止まらない。すこし気が遠くなって眠りに入っても,そのセキで目覚め,結局寝不足になるのである。今日はよくなるだろうと期待していたが,まだ用心した方が良いと思い,せっかくの孫の生活発表会には行けなかった。孫が張り切っていたから,残念である。

今日の新聞に山折哲雄さんが「老病死」について書いている記事を見つけた。「心臓死」のような時間的な点の死でなく,時間幅のあるプロセス死を考えようという記事であった。死をプロセス死ととらえると,どのような話の展開になるのかは今日の紙面からは読み取れなかったが,来週の記事を楽しみにしよう。

死について,私のなかで最も感動的なものとして残っているのは妻の父親の死である。義父はがんの病に侵されていたが,死ぬまで私たちの家で私たちといっしょに暮らすことができた。それには妻の深い愛情があったためであろうと,今は振り返って思う。

義父はある夜,就寝中にひっそり息を引き取ったのであるが,その瞬間はだれも気付かなかったように思う。妻が気づいて,亡くなったことが分かったが,妻が「まだ,夜中だから,皆でお父さんの横で寝てあげよう」といってくれ,子供も含めた私たち3名か4名かは義父のそばに布団を敷き直して,寝ていたのである。

空が薄あかいろになり,私たちは静かに起き出した。そのときは互いに声を交わすこともなかったが,皆が義父の死を静かに自分の心に受け止め,悲しむこともなかった。

義父も穏やかな死を迎えたと思うが,私たちも心を乱すことなく,それを受け止めることができた。

私の実父もがんに侵されて亡くなったが,そのときは,私は自分で悲しみを表現しようと夢中であったのではないかと思う。だから今考えると,もっと穏やかに死を受け止めてあげ,送り出すべきであったのではなかったかと思うのである。

(2019年12月14日 土曜日 晴れ)

列車の車窓から


昨日,今日と1泊2日で妻の生まれ故郷新潟県十日町市に行ってきた。妻の叔父さんが体調不良なため,施設に入所しているのをお見舞いするためである。私の体調もよく,また我が家の愛猫の世話については長女にお願いできる目処がついた。それでこの際,行ってすぐ帰ってもよしと思い,行ったのである。

叔父さんの状態は思いのほかよく,妻を見るなりマスクをしているにも関わらず,「〇〇ちゃん(妻の名前),ようきてくれたねえ」と言ってくれた。言葉も鮮明で,顔の表情もにこやかであった。妻と叔父さんの間で取り留めもないことを長く話して,話の終わりが見えないくらいであった。来たかいがあったと思った。

十日町では親類のおおくの人とも会って,楽しいときを過ごしたが,その話についてはちょっと置いといて,今日は列車の中から見た車窓風景について話してみたい。

というのも,天気予報では昨日は関東地方に初雪がふりそうだといっていたのに反し,全くの晴天であったのだ。ぼんやりと新幹線の席から外を見ていると,青空が一面に広がっている。特に目的もなく山々を眺めると名古屋の手前,岐阜辺りで遠くの山並みのさらにその向こうに白い山塊がくっきりと見える。あの山はなんの山だろうと,妻といろいろ意見を言い合う。御嶽山が見えたのではないかと結論づける。

そうすると,その日は富士山もよく見えるのではないかと予想でき,事実みごとな富士山を拝むことができた。

高崎あたりでは遠く浅間山らしい丸い峰をみることもできた。ところが山を越え,越後に入ると天気はひどい曇りで山並みは全く見えなくなってしまった。

翌日,すなわち今日であるが,天候は全く逆になってしまった。越後では朝,霧が低く立ち込めていたが,その上は晴天である。ほくほく線の六日町あたりから見る越後の山は見事であった。八海山が白い雪の頂きをみせている。朝日に輝く田畑と雪山のバランスがすばらしい。

ところが上越トンネルを越えると今度は関東が曇り空で山はまったく見えない。静岡あたりでやっと晴れ上がり,富士山を拝むことはできたが,昨日の御嶽山はどこにあるのやら,なんにもわからない始末である。

(写真は八海山の遠望である)

(2019年12月9日 月曜日 晴れ)

おむすび山の起源


飯野山(いいのやま)や昨日訪れた爺神山(とかみやま)は香川県の山の地形を特徴づけるおむすび山である。どうしてこのようなおむすび山ができるのかを調べた。

おむすび山の下半分は花崗岩(かこうがん)でできており,上半分は安山岩(あんざんがん)でできている。花崗岩,安山岩はともにマグマが固まってできた岩である。硬度は花崗岩の方が大きいが,花崗岩は風化するとまさ土(ど)という黄土色(おうどいろ)の砂状の土に変わる。私たちは小さいころよりこの土を山土(やまつち)と呼んでいた。山に登ると山の表面がこの土で覆われていたからである。

地下のマグマがゆっくり固まって花崗岩になり,それが隆起して地表に現れた。その花崗岩の隙間に新たなマグマが噴出し,急速に固まって安山岩になった。そして,安山岩,花崗岩が雨によって浸食されると,鉛筆の先のような山の形が残ったのである。鉛筆の芯が安山岩である。

飯野山に登ると最初黄土色の脆い山土を目にするが,中腹あたりで黒っぽいギザギザの石に変わる。爺神山も同じような構造である。

爺神山に行ってたいへん残念なのは,東半分が中腹から頂上まできれいさっぱり削り取られていて,無残な姿を残していることである。このような状況は天霧山でもみられた。採石業者が日本の高度成長期にセメントの砂利として山を削ったのであろう。削った部分はすべて安山岩の部分である。

異様な山の姿を見て,今は誰もが憤慨するに違いないと思うのだけれど,その時には誰もそのことには関心を持たなかったのかもしれない。

(写真は爺神山の遠景である)

(2019年12月5日 木曜日 曇り)

爺神山


昼過ぎてから急に高瀬町の爺神山(とかみやま)に行きたくなった。午前中,ワープロで般若心経の冊子を作っていて,般若心経を唱えたくなったのである。

爺神山には大師堂という小さなお堂がある。以前本山(もとやま)寺から本門(ほんもん)寺までのウォーキングのときに寄って,お気に入りになっていた。小さなお堂であるが,すごくフレンドリーに感じられる場所なのである。般若心経を心置きなく唱える場所といったらここしかないと思えるくらいよい場所である。

2時ごろ軽トラックに乗ってお堂まで行き,だれもいないのをこれ幸いにして,気持ちよく般若心経を唱えた。その後,爺神山を一周する2km弱のミニ八十八か所めぐりに行った。道のわきの88ヶ所にほとけの石像が安置されている。どれも前掛けをしていて,地蔵さんのようである。それぞれのところで3回ずつ南無阿弥陀仏を唱える。真言宗のほとけであるが,許してもらうことにする。

44番目でちょうど半分になるので,そこで再び般若心経を唱える。全部まわり終えてお堂に戻ってからもお堂の中で般若心経を唱える。今日は3回,般若心経を唱えてしまった。1時間弱のコースタイムである。

(2019年12月4日 水曜日 曇り)

満濃池一周


今日は曇ってはいるが,風が弱い日である。気温はやや低く,肌寒く感じる。体調がよくなったので久し振りにウォーキングに出かけることにした。妻も応援してくれている。

本日のルートは満濃池一周である。満濃池に隣接してゴルフ場がある。そのため,満濃池の縁ぞいに一周するルートはない。ゴルフ場を遠巻きにするルートを取らざるを得ない。

満濃池ダムの上にある駐車場に車を置き,反時計まわりに池をまわることにした。ダムのすぐ近くに神野寺という真言宗のお寺がある。まずはそのお寺にお参りに行く。小さなお寺であるが,落ち着いていて感じがよい。本堂にてしばし手を合わせる。帰り際に庭の手入れをしていたご住職さんからこんにちはと声を掛けられる。私も挨拶を返す。気持ちのいい住職さんであった。

森林公園の方には行かないつもりであったので,森林公園入口を通り過ぎ,そのまま広い道を進むと,四国のみちの標識があった。四国のみちはどこに続いているのかと思い,そちらに進むと結局は森林公園のなかに来てしまった。森林公園の遊歩道を歩いていると足がやや不自由そうなご老人に出合った。挨拶を交わし,先に進む。結局,ゴルフ場の入口付近まで来て森林公園の出口が見つかった。そこから元来た道の方に戻った。途中,大規模な鶏舎が横にある道を通ると,鶏の声が響き,鶏糞のにおいが漂う。

農道を通って白鳥神社に向かう。本殿にお参りし,さらに春日神社の方に進む。たまたま民家の横を通り過ぎると,人のよさそうなおばあちゃんと目が合った。挨拶を交わす。おばあちゃんが,「散歩はいいよね。うちのお父さんはもう散歩ができない体になったのよ。」などという話をしてくれた。

春日神社の方面は緩い上り坂である。休み休み進む。やっと春日神社に着き,昼食のおむすび1個と餡入り草餅を1個食す。もう12時半である。すこし進みが遅いようである。

春日神社から満濃池上流までの山の中の道はトラックが多く行き来する自動車道である。趣のないまま,歩だけを進める。途中,もっこく池というやや大ぶりの池があった。数人が池に竿を向けて,釣りを楽しんでいた。その横ではグランドゴルフに興じる老人の集団があった。この道沿いにはほとんど民家らしい民家はないので,どこから来たものかと思った。

満濃池上流から満濃池を周回する道は自動車の通る道と予想していたが,それに反し,人と自転車だけが通れる遊歩道であった。これには驚くとともにうれしさがこみ上げてきた。満濃池の縁を緑の森に囲まれながら,ゆっくりと歩いた。

満濃池ダム駐車場 10:00 → 神野寺 → 森林公園遊歩道 → 白鳥神社 → 春日神社 12:30 → もっこく池 → 満濃池遊歩道入口 13:30 → 満濃池遊歩道 → 神野神社 → 満濃池ダム駐車場 14:40

(2019年12月3日 火曜日 曇り)


お札

昨日は病み上がりだったのに,あまりにも気分がよかったものだから,図に乗って昼ごはん前に,妻のつくっていたさつまいもの揚げ物を2切れ食べた。それがよくなかったのであろう。昼をすこし過ぎたころに胃の内容物をもどした。いよいよ,十二指腸が閉塞しはじめたのかと暗い気持ちにはならないまま,漠然と思った。

胃の内容物をはいてしまうと気分はよくなり,夕食はおかゆと固形物のないお汁をいただいた。

夜に地域の神社担当の方が神社のお札を持ってきてくれた。神宮大麻(たいま)と地域の氏神様のお札である。

神社のお札については,今までたいして関心を向けているわけでなく,習慣ごととしてあつかっていたが,最近ウォーキングでよく神社をお参りする機会が増えたため,神社に張り出されているポスターなどを見ることが多くなった。

天照の神のお札と地域の氏神様のお札があることは知っていたが,天照の神のお札を神宮大麻と呼ぶことについては,ポスターを見るようになってからなじんだ言葉であった。

いただいたお札をさっそく神棚に飾る。

(2019年12月1日 日曜日 晴れ)

エンパシー

ブレイディみかこの「ぼくはイエローでホワイトで,ちょっとブルー」(新潮社)を読んでいて,エンパシーという言葉に出会った。

エンパシーと同じような言葉にシンパシーというのがあり,どちらも日本語で共感と訳されるようであるが,意味は大いに異なる。

シンパシーは映画を見たり小説を読んだりしたときなどに,登場人物と自分が共にする,自然に湧きおこる感情であるのに対し,エンパシーはシンパシーの外側に横たわる感情である。自分がなにもしなければ,エンパシーの領域まで行きつけないが,何回も映画をみたり,頭でいろいろ考えたりするうちに,そうかと,ふと登場人物と共感する。その共感のことである。

著者はシンパシーを「感情」,エンパシーを「能力」と喝破したが,まさにそう考えると納得する。

本の中では,著者の中学生の息子がライフスキル教育という科目の中で,「エンパシーとはなにか」という試験問題を出され,息子が「自分で誰かの靴を履いてみること」と答えたという逸話が紹介されている。

人種や階級という多様性のある英国社会で,いかに相手を思いやれる能力が必要であるかを述べているのである。

(2019年11月30日 土曜日 晴れ)

湯たんぽ

一昨日から体調が悪い。

一昨日朝,ふとんの中で何気なしに歯を一本一本指でさわっていると,奥から二本目の歯に痛みを感じた。歯ぐきと歯の境を指のつめでおすとその歯だけ違和感があるのである。上の歯だから,鏡で見てもよくわからない。

なにはともあれ,その日のうちに歯科医院に電話し,その日の予約を取る。前の勤務先のちかくのその医院は自宅から小1時間かかるが,もう30年以上通っているから,退職してもその医院にいっている。

その歯だけのレントゲンと歯並び全体のレントゲンを撮って調べてもらうが,何の異常もないという。異常がないのは結構なことであるが,やや釈然とせず帰宅する。その日の夕方,38度4分の熱が出る。これは一大事と,布団に潜る。

みぞおちあたりがムズムズするうえ,下半身がやけに冷たい。妻に湯たんぽを出してもらい,両足を温めながら,寝入った。このときほど,湯たんぽのありがたさを思ったことはない。

朝起きて,熱を測ると36度7分まで下がっている。熱についてはすこし安心したが,力を入れて寝たせいか,背中の骨々が痛い。インフルエンザかもしれないと妻と話しつつ,近くの内科医院に行く。診てもらったところ,インフルエンザではなく,胃腸炎ではないかという話であった。

朝,昼とお粥を食べて用心していたのに,すこし気分が良くなり,妻が買ってきてくれたミカンを寝床で2,3個食べる。それが良くなかったのだろう。夕方,胃の内容物をもどした。

それからは湯たんぽを抱いて寝るばかりである。

今日になって,ようやくよくなった。

(2019年11月28日 木曜日 曇り)

神谷神社界隈


昨日の新聞に神谷(かんだに)神社の記事が載っているのを妻が教えてくれた。その記事によると,香川県内の国宝は本山(もとやま)寺の本堂と神谷神社の本殿の2つしかないそうである。神谷神社についてはいままでまったく知らなかった。場所的には,五色台の坂出側山すそにある。

そこで急遽,神谷神社に行くことにした。今日の大きな目標は2つある。1つ目は神谷神社を訪問することである。2つ目は浄土真宗の寺にいく折りには本堂の前で正信偈を読み上げることである。正信偈とは浄土真宗系の門徒が唱えるお経みたいな文書である。そのことを妻に話すと,家でもそんなこと,したことがないのにどういう風の吹き回しなのかと疑問を呈したが,まあ,なんとなくしてみたいのである。本山寺に行ったとき,お遍路さんが唱えるお経の声に影響を受けたのかもしれない。

清立(せいりゅう)寺の,道を挟んだ反対側にある駐車場に車を止め,まずは清立寺にお参りする。清立寺は浄土真宗のお寺なのでここで正信偈をあげようと算段していたが,本堂にお参りすると中から門徒らしき人々の賑やかなお経を唱える声がする。それで,この寺で正信偈を唱えるのはあきらめた。清立寺は大きくて,掃除の行き届いたりっぱなお寺であった。

清立寺から神谷神社までは直ぐである。神谷川に沿ってさかのぼると,神谷神社の拝殿に行きつく。苔むした狛犬がいい雰囲気を醸し出している。拝殿から見る本殿は遠くてよく見えない。本殿の周りは塀で囲っているから,本殿に近づくことはできない。裏にまわり,塀越しに本殿の屋根を眺め,国宝を堪能する。

神谷神社から東鴨神社に行く道の途中で,岩屋寺の登り口を示す石碑がたっていた。地図を見ても,それらしいお寺は見当たらないが,時間的に余裕があったので,岩屋寺に寄り道することにする。道ばたには小さな緑色の小鳥が群れをなして,トゥルトゥルという声をあげて鳴いている。家に帰って妻にその小鳥のことを話すと,それはメジロではないかという。

岩屋寺は山の中腹にあった。弘法大師が開いた遍照院の末寺で,大きな岩の下に掘り抜いた洞窟に本尊が安置されていた。ちょうど,本尊の前に信者の拝む場所が用意されており,そこに般若心経があったので,般若心経を読み上げた。気持ちが安らかになる場所である。

岩屋寺から山を下り,東鴨神社に行く。東鴨神社は地域の氏神様を祀った神社である。そこで昼食のおにぎりを食べていると,母親と二人の子供たちがやってきた。子供たちが「こんにちは」と元気な声であいさつをしてくれる。私も笑顔であいさつをかえす。のびやかな子供たちである。

東鴨神社の近くにある正蓮(しょうれん)寺もりっぱなお寺であった。この寺は我が家の宗派と同じ寺であるので,本堂で正信偈をはじめて唱えた。

ブロッコリーやレタス,人参が植えられた広い畑のあいだの農道を進み,犢山(うしのこやま)天満宮を経由して,駐車場に戻る。疲れたが,気分のよいウォーキングであった。

(写真は塀の外から取った神谷神社本殿の裏側である)

(2019年11月23日 土曜日 曇りのち晴れ)

法句経講義


今日は妻と病院に行った。マーカー値が増加気味なのは仕方ないが,他の数値は悪いなりに安定している。体調はいいから,これでよしとしなければならない。

図書館から友松圓諦(ともまつえんたい)の「法句経(ほっくきょう)講義」(講談社学術文庫)を借りて読んでいる。私は,最近は宗教の書籍を目にしないようにしているので,この本を私が借りたのは,私自身が驚いている。借りるまでのいきさつを以下に述べる。

テレビでブラタモリを何とはなしに見ていると,比叡山のようすを放送していた。去年の今頃,大津で大学時代のクラブのOB会があって,そのあと,友人と比叡山に行った。それがあったから,ブラタモリの内容に興味が湧いたのである。

私は比叡山の根本中堂を見学してその厳かさに感動して帰っただけであるから,比叡山の上っ面を見ただけにすぎない。ブラタモリでは比叡山にこもった僧がにない堂で修行する様子をリポートしていた。にない堂は常行堂と法華堂からなり,常行堂では念仏の修行を,法華堂では法華経の修行をするそうである。そこで,仏教は念仏と法華経からなっているんだなあと気づいたしだいである。

我が家の宗派は念仏の宗派であるから,念仏については親しみがあるが,法華経についてはなじみがない。そこで本屋や図書館で法華経について手短に紹介している本はないものかと探してみたが,どの本も大部なものばかりである。よく考えてみたら法華経そのものが大部なお経だから,それもしかたないことかもしれない。

そうこうしながら,本棚を見ていると上記の本が目に入ったのである。法句経とは聞きなれぬお経と思い,何気なしに本文をパラパラめくっていると,わかりやすい文章に出合った。

法句経はひとつが数行からなる小さな宗教詩を集めたお経らしい。「法句経講義」はそのお経の一部分をNHKラジオで昭和9年に放送した,その原稿をまとめたものである。だから文章がこの上もなくわかりやすい。

「法句経講義」に紹介されている宗教詩のうち,つぎの詩が気に入った。このような気分でウォーキングに励みたいと思った。

法句経 四十九

花びらや色や香を
そこなわず
ただ蜜味(あじ)のみをたずさえて
かの蜂(はち)のとび去るごと
人の住む村々に
かく牟尼尊(みひじり)は歩(あゆ)めかし

(写真は工事中の根本中堂入口である)

(2019年11月21日 金曜日 晴れのち曇り)

法軍寺界隈


今日は生(なま)あったかい風が西から吹く。飯山図書館から借りた本がなかなか読めなくて,もう返却しようと思うが,今日はあいにくの休館日である。綾歌図書館は開館しているようなので,今日は飯山図書館まで本を返しにいくついでに,綾歌図書館まで散策しようと思う。

飯山図書館から綾歌図書館までの田園地帯は法軍寺(ほうくんじ)という。昔,法勲寺という大きなお寺があったので,その名前が地名として残った。

飯山図書館から南に進むと,王子神社という小さな神社がある。その神社の境内には大きなセンダンの木がある。センダンは千珠(せんだま)から付けられた和名だそうである。実の付き方がそのような形になっている。千珠にちなんでか,丸い石が多くセンダンの木の前に祀られている。このような祀り方は初めて見るものであり,珍しい。

県道22号線を渡って,細い路地を進むと古法勲寺跡がある。その敷地の一部に法勲寺という新しい寺が建っている。浄土真宗の寺のようである。お参りしに境内を行くとそこの住職さんとその友人らしき人に声を掛けられ,しばし談笑した。その住職さんは二代目だそうで,先代の方がその地にこのお寺を建てたらしい。住職さんのおかみさんも出てくれて,4人で話が弾んだ。今日一日の最高の一期一会であった。

法勲寺から先には3つの神社が隣接している。讃留霊王神社,八坂神社,八幡神社である。中でも,八坂神社,八幡神社はたいへん立派な神社である。地域の人々の両神社に寄せる思いが伝わってくる。

飯山南小学校のわき道をとおって県道438号線の方に進む。県道がカーブしたあたりに今日二カ所目の王子神社がある。王子神社の名の由来はなにであるのだろうと考えつつ,先に進む。

東論寺をすこし進んだ道端に東論寺大師井戸という石碑が建っている。その山際を望みこむと草むらに水場らしいものが見えた。

仁池の堤まで来ると綾歌図書館まではもう少しである。仁池の堤の上に飛渡神社という朽ちかけた神社があった。

さらに進むと諏訪神社がある。諏訪神社の先に,すこし坂を登ると専立寺がある。たいへん大きな本堂である。本堂の前で南無阿弥陀仏を唱える。

(写真は最初の王子神社の千珠の石である)

(2019年11月18日 月曜日 晴れのち曇り)

月の満ち欠け

佐藤正午(さとうしょうご)の「月の満ち欠け」(岩波文庫的)を読んだ。人の死が別の人の生に記憶とともに引き継がれるという話である。最初はミステリータッチの展開で興味をそそられるが,中ほどから登場人物が多くなって混乱する。最後はうまく話を収(おさ)めており,それなりの読後感を得る。

このような話が現実に起こるとは思えないが,それと似たような話を昨夜,妻がし,この小説に私の気持ちが戻ったのである。

昨夜,末っ子夫婦と食事会をした。たいへんおいしい店の食事を楽しみながら,さまざまな話題を暖かい気持ちで話し合った。いい雰囲気でいつまでも話をしていたい気がした。その会話な中でのほんのちょっとした妻の一言が頭に残った。それは私の若いころにかかった大病のことである。

その話については,いままでいくども話題にのぼり,いささか陳腐な話題のひとつであったのだが,昨夜は私の祖母の長寿と関連づけて,命のバトンタッチの話になった。それは妻の単なるその場限りの思い付きの言葉であったと思うのだが,それが佐藤正午の「月の満ち欠け」と重なり合って,頭に残ったのである。

祖母の夫は50歳前後の年に亡くなった。私はその祖父が亡くなった後に生まれているので当然,祖父の面影は知らない。祖父が短命だったのとは正反対に祖母は100歳を全(まっと)うし,大変な長寿であった。妻は祖父の命が祖母の命を長引かせたといったが,その言葉は私も妻も,口から出まかせの軽い言葉であると受け取っていたのである。ところが,私が若いころの大病で生き永(なが)らえたのも,誰かの命のバトンタッチかもしれないといったのが私の頭に残った。

私の両親も60,70代でなくなり,もう少し長生き出来ていたのかもしれない。だけど,その命を若い私が受け取って,病気を克服したのだという気持ちになった。もちろんそのような考えは荒唐無稽(こうとうむけい)なもので,私自身,こじつけの,何物でもないものと思っているが,すこししんなりとした気持ちになったのである。

私も平均寿命を全うすることはない予定である。だけど私の命が誰かの長寿や大病の回復に寄与できると考える考え方は私自身の気持ちを安らかにできるなあとしみじみ思ったのである。

(2019年11月17日 日曜日 晴れ)

本山寺から本門寺へ


昨夜の冷たい少雨の天気模様がうそのように,今朝は晴れ渡り風がない。気温はやや低いがウォーキング日和である。昨夜から,図書館に置いてあった讃岐歩こう会のパンフレットを眺めていて,本山寺(もとやまじ)から本門寺(ほんもんじ)へのコースに興味を持っていた。それで,今日はそのコースを歩いてみることにする。

豊中町のYouMeタウンの駐車場まで,妻に車で送ってもらい,本山寺に向かう。本山寺は70番札所であるが,他の札所と比べても重曹な構えの寺である。入った途端,その趣に驚くほかない。

集団でお参りに来ているお遍路さんの,調和がとれて奥ゆかしいお経の声を聴きながら,境内をめぐる。五重の塔がきりっと立っている。本堂はずっしりと構え,何事も受け止めてくれるようである。

雰囲気を堪能して,本山寺を後にする。

つぎの目的地は宇賀神社である。途中,本山小学校の横を通りすぎる。体育館の中から子供たちの歌声が聞こえる。体育館の入口が1mほど空いていて,道から中を覗き込むと7,8名の生徒が舞台で合唱の練習をしている。しばらくその歌声を聞いていた。いい雰囲気の合唱であった。

宇賀神社に行く道を間違え,少し遠回りする羽目になったが,なんとか辿り着く。宇賀神社は地域の神社としてはたいへん立派な神社である。広い境内は祭りのとき,神輿や太鼓台であふれるのであろう。

この神社にはどぶろくの製造法が伝わっているらしく,本殿の廊下にはどぶろくを作る桶が多く干してあった。

宇賀神社を後にし,国道を渡って,権兵衛神社に行く。本殿にお参りし,先に進む。

小高い森のふちを辿り,大師堂に向かう。途中,鉄道の踏切があり,踏切を渡って少しすると特急列車が走っていった。

大師堂の途中に蓮臺寺(れんたいじ)という小さいがきれいな寺があり,お参りする。真言宗の寺であるので,あるいはこの寺が大師堂を管理しているのかもしれないと想像してみる。

大師堂は中に弘法大師の石像やほとけの石像を数体安置している堂である。日常的に地域の人々が毎日お参りに来ているらしく,アットホームな雰囲気である。私も負けずにお参りする。

大師堂から宗吉瓦窯跡に進む。立派な展示館が作られている。入場料は100円であるが,65才以上は無料という掲示を見て,入ることにした。客はおらず,受付の人が専属で説明してくれた。

すこし疲れを感じつつ,本門寺に向かった。

(写真は本山寺の境内の様子である)

(2019年11月15日 金曜日 快晴)

四国カルスト


早朝から空には雲ひとつない晴天である。新潟から友人が訪ねてくれたので,今日は妻と友人の3人で四国カルストまでドライブすることにした。

高速道路をとおり,私の運転で高知の須崎まで行く。そこから妻に運転を代わってもらい県道197号線,439号線,304号線を進む。県道にはいると山あいの雰囲気がでてき,すてきなドライブになる。

いくつかのトンネルを抜け,道のはたにそびえる峰を眺めていると,何機のも巨大風車が白い羽を広げている。風車にちなんだ道の駅があり,雰囲気を盛り上げている。

県道304号線は車1台がやっと通れるほどの狭い県道であるが,それに続く林道に出ると道幅が広くなり,通りよい。

峰まで車で上がると見通しの良い風景になった。四国カルストの入口にあるカルスト学習館でパンフレットをもらい,用を足す。説明してくれる人が1人おり,親切にいろいろ教えてくれる。

峰に沿った道路を進むと小さなトンネルがあり,そこを抜けるとカルスト台地が目の前一面に広がっている。1000mを越える峰であるのに,今日はすべてが青空である。雲ひとつなく,風も吹いていない。車が数台止められる駐車場に車を置き,しばしの散歩を楽しむ。

妻が太平洋はどちらかなあと尋ねるので,大まかな方向を示すが,そこには海は見えない。岸辺まで山々が続いている。高知の山の深いことが一目でわかる。あの山並みのあいだを四万十川が悠々と流れているのであろう。

カルストの岩々はまるで人が群れているようだ。白い岩肌が黄色くなった草原のあちこちに見える。

天狗荘のさらに向こうの峰の上に青い建物らしきものが見える。なにかなあと皆で思案した挙句,あれは石灰岩を採取する工場の建物であろうと想像する。

地芳峠(じよしとうげ)を通り,松山の方面に下る。狭く,くねくねうねった道を進み,大急ぎで松山市内に向かう。鯛めしを所望するためである。かどやという鯛めし屋に行き,宇和島の鯛めしと松山の鯛釜めしを食す。宇和島の鯛めしは卵入り汁に薄く切った鯛の刺身を混ぜ,白ごはんにかけるものである。妻と私でいっしょに一善の鯛めしを食べていると瞬く間にごはんがなくなり,妻がお代わりをリクエストする。

まったく楽しい昼ごはんであった。

(2019年11月12日 火曜日 快晴)

雲辺寺


本日は朝から晴天である。気温はやや低いが散歩にはうってつけの日である。どこかに行きたいなあと考えていて,ふと雲辺寺の森が頭に浮かんだ。雲辺寺には何度か行ったことがあるが,森の散歩はしたことない。早速用意し,出かけることにした。

自分の体力を考えて,登らないコースを設定した。栗井ダムの駐車場に車を置き,そこから歩いてロープウェイの山麓駅まで行く。ロープウェイで雲辺寺の山頂まで行き,そこから遍路道を下って栗井ダムまで帰るコースである。

山麓駅まで行く道の途中に多目的保安林がある。散歩するコースをこしらえてあり,面白そうであるが,どうも利用する人がいないようで,道が草で覆われ荒れ果てている。

ロープウェイの山麓駅に着くと,平日の朝であるのに思っていたより多くの人がいた。半数はお遍路さんの衣装を着けている。

ロープウェイの後部座席に座り,眼下の景色を楽しむ。ロープウェイから見る景色はいつ来てもすばらしい。深い森が視界一面に広がっている。

雲辺寺で大師堂と本堂にお参りし,阿讃縦走路の方面に進む。すこし行くと木のベンチがあったので,おむすび一個の昼食をとる。遍路道を登って来たらしい女性登山者に会い,こんにちは挨拶を交わす。ベンチに座っていると寒さが体にしみこみ,すこし震える。

ここから栗井ダムを経由し,大興寺に至る遍路道は四国のみちにも指定されており,よく整備されている。下っていると下から遍路衣装の参拝者が登って来た。挨拶を交わす。

さらに進んでいると上から速歩の下山者が3名ほど私を追い越していく。そのうち2名は外国の人らしい風貌をしている。大きな荷物を背負い,遍路衣装をしているから歩き遍路であろう。やはり挨拶を交わし,道を譲る。

この遍路道はあまり景色に変化がないので,少々退屈である。途中,野生の柿の木が小さな赤い実をたくさんつけていたので,1個とってかじってみたが,渋柿であった。

まだ木々は紅葉していない。足がだんだん痛くなる。普通の登山者の2倍の時間をかけて,栗井ダムに到着した。

(写真はロープウェイから見た森である)

栗井ダム駐車場 9:45 → 多目的保安林 10:00 → 雲辺寺山麓駅 10:45 → 雲辺寺 11:30 → 昼食 → 阿讃縦走路分れ → ロープウェイ道分れ → 野生の柿の木 → 登山口 14:50 → 栗井ダム駐車場

(2019年11月5日 火曜日 快晴)

本島


夜半3時ころ目覚め,眠れないのですこしパソコンをいじって再び寝床につく。明るくなって妻に声を掛けられて起きるともう8時である。外は清々しい朝である。日がまんべんに降り注ぎ,暖かい空気になっている。朝食を済ませ,この天気のもとで今日何をしようかと考える。いろいろしたいこと,行きたいところがあるが,週末の末っ子の結婚式のことを考えるとあまり危険なことはできない。そううつらうつら考え,今日は丸亀市の沖に浮かぶ本島に行くことにした。

本島周辺はいま瀬戸内国際芸術祭の真っ最中である。妻に港まで送ってもらい,フェリーで本島に向かう。平日なのに乗船客が多い。多くの人が軽リュックを背負っている。皆,芸術祭のための観光客なのであろう。外国の人も複数見える。

泊港に着くと,客はレンタル自転車やシャトルバスに乗ってそれぞれの目的地に進んでいく。私はウォーキングが目的だから,ゆっくりてくてく歩いていく。

本島中学校の横の丘には天理教のおおきな教会が建っている。たぶん今回が最後の本島めぐりと思い,天理教の教会を見学にいく。教会を正面から見るとお城のような屋根構えの建物である。石階段を登り,ガラスが組み込まれたおおきな格子戸の中を覗き込むと,中には板階段があって,おおきな板戸があり,中の様子がわからない。ガラス格子戸と板戸を開け,中に入る。さらに進むと板廊下があって,もう一つの戸がある。その戸の内側に入るとひろい畳の部屋があり,遠くに祭壇がある。畳に座り,手を合わせる。

天理教教会では人には出会わなかった。教会に通じる坂を下り,つぎに塩飽勤番所(しわくきんばんしょ)跡に向かう。古くて小ぶりな建物である。中を見学するが,歴史的興味が湧かないのが悲しい。

勤番所跡を後にして笠島集落方面に進む。新在家集落のあたりで昼になったので,ベンチのみがある休憩所で買ってきたおにぎりをほおばる。

休憩所を少し行くと岩にちいさな磨崖仏が掘られていた。仏像のような恰好ではないので,古いものか新しいものか判別できない。

笠島集落は街並み保存をしているせいか,きれいに整えられている。ただどの建物も200円ほどの入場料を取っているので,外から眺めるばかりで中には入らなかった。

観光客があまり行かない路地の方に進むと,尾上神社があった。土地の氏神様を守っている神社であろう。古いが味わいのある神社である。本殿にお参りし,下っていると夫婦づれにであった。こんにちはと挨拶をかわす。

尾上神社から山をすこし登り,長徳寺に行く。小さいが奥ゆかしい本堂がある。この寺は真言宗の寺であるが,本堂では南無阿弥陀仏を10回ほど唱えた。境内にはおおきなモッコクの木があった。

それまではゆっくりしたウォーキングであったが,連絡船の出発時刻に間に合うように速歩で泊港まで戻った。

(写真は磨崖仏である)

泊港 11:15 → 天理教教会 11:40  → 塩飽勤番所跡 12:00  → 新在所休憩所(昼食) 12:20  → 磨崖仏  → 笠島集落 12:50  → 尾上神社  → 長徳寺 13:40  → 泊港 14:00

(2019年10月28日 月曜日 快晴)

在日

今日は病院でCT撮影を受ける日である。

ここ一週間ほど下痢が続き,微熱が出ていた。そのため,用心をしてなるべく床に臥せる時間が多くなっていた。

インフルエンザの予防接種は先週,医院に予約して受ける予定であったが,微熱が引くまで待とうということで,微熱の引いた昨日予防接種を受けた。予防接種の副作用のせいか,お腹が疼き,寝ていて急に胃の内容物をもどしそうになる。そのときはいそいでトイレに行き,便座に口を向けて吐く用意をするのであるが,つばのみが出るばかりで内容物は出てこない。そういうことを昨日の夕方から今朝まで繰り返していた。

病院に行く頃にはすこし気分がよくなって,無事CT撮影を受けることができた。

姜尚中(かんさんじゅん)の「在日」という本を図書館から借りて,今日読了した。以前ならばこの本はあまり手にしたくない本であった。在日という差別の歴史が記述されていることが予想できるので,読むのにつらい気持ちになるだろうと思ったからである。

ただ,そういう差別の中で姜尚中がなぜ早稲田大学に進めたのか,なぜドイツに留学できたのかについては興味があったので借りることにしたのである。

読んでみると少年時代の苦難は想像どおりであったが,意外と経済的には多少の余裕があるように感じた。また,ドイツ留学のいきさつについての記述は面白く読んだ。

この本でもっとも納得いったのが自分を在日の民から東北アジアの民へと昇華していくところである。知識人として日韓問題だけでなく,さまざまな問題にコメントしていく過程で,自分の立場をどうあるべきか考察するあたりは参考になる。

姜尚中が影響を受けたエドワードサイードの「わたしはときおり自分は流れつづける一まとまりの潮流ではないかと感じることがある。」という言葉は,福岡伸一が述べている生命の動的平衡を社会にまで広げた概念であると読め,面白く感じた。

国というくくりでなく,人間や物質,思想のおおきな流れを東北アジアの歴史として記述した歴史書が出ないものかと期待し,そのような書物が出たときはぜひ読んでみたいと思った。

(2019年10月24日 木曜日 雨)

毎日が日曜日

毎日が日曜日とは今日このごろのことをいうのかもしれない。

朝,目覚めると外は明るくなっている。以前はどうしても4時ごろに目が覚め,真っ暗な中,電気を灯し,新聞を読んだりして明るくなるのを待っていた。ところがここ何日かは外が明るくなってから目覚めるのである。

夜中に一度排尿のため目覚めるのはいつもの調子であるが,眠ってしまえばぐっすりと眠れる。

朝食を終え,作業着に着替え,わずかな力仕事を始める。ほんの一時間程度であるがすがすがしい気持ちになる。そうこうしているとすぐ昼になる。

最近は妻の作ってくれる食事がとくにおいしい。手の込んだ料理もおいしいが,シンプルな一汁一菜(いちじゅういっさい)のときもおいしく食べることができる。妻といろいろなことを穏やかに話しながら食べる食事は最高である。

昼食を食べると,血糖値が高まるためか,眠気がでる。そうすると引きっぱなしの布団に潜り,すぐに眠りにつく。以前だと,食べてからすぐ寝ると体に良くないよという妻の言葉が飛ぶが,いまはそのようなことはない。眠りたいだけ眠り,目覚めれば起き上がる毎日である。

気持ちがゆったりとして,気持ちよい。ほんとうに毎日が日曜日という気分である。

(2019年10月22日 火曜日 曇り)

ちょうさ


昨日は大型の台風19号が関東地方を襲い,西日本も曇り空で日本中に広く影響が出た。長女の嫁ぎ先の地域の秋まつりが昨日,今日とあったが,一度見てみたいという希望を長女に伝えると,長女がまつりのいい時間帯を見繕って連れて行ってくれた。

まつりの盛んな地域なので,神輿やちょうさ,獅子舞などがにぎやかに行われていた。

私たち夫婦と長女,孫二人して,長女の伴侶が乗るちょうさ(太鼓台)を神社で見る。勇ましいかきくらべで長女は興奮している。いい光景である。私たちもにこやかな笑顔で見守っている。

地域のよい面をみた思いである。

(2019年10月13日 日曜日 曇り)

松江城


昨日は雨模様の天候だったのに,今日は晴天である。歩くにはすこし暑くなりそうである。

今日は松江城と県立美術館を見学する予定である。宿で朝風呂に入り,9時すぎに松江城に向かう。玉造温泉が松江市内にあるため,松江城は車で直ぐである。松江城の近くの有料駐車場に車をとめる。小さな駐車場であるが,朝早いためか駐車場は半分くらいしか車が埋まっていない。駐車場から松江城に向かう。

松江城は小高い丘のうえに建っている。黒塗りのお城である。長野の松本城とおなじ装束であるなあと妻と話ながら天守の方に進む。

天守は5階建てで,急な階段が続いている。普通ならばなんでもない階段であるが,昨日の銀山でのウォーキングで足にきたのか,階段を登るときフラフラする。それを見て妻がしきりに心配する。なんでもないと自分では思っているのに手は階段の手すりをしっかりつかんでいて,おっかなびっくりの様子である。自分自身でおかしさがこみ上げてくる。

天守から見る景色は素晴らしい。宍道湖(しんじこ)がいい感じで見える。宍道湖を私がしきりに「ししどこ,ししどこ」というものだから,妻があれは「しんじこ」ですよと注意する。

天守を降りて,城内の興雲閣に向かう。西洋風のこの建物は明治天皇が訪問した折の宿として建てられたようであるが,明治天皇の訪問は中止され,実際に泊まった天皇は大正天皇であったらしい。

松江城より歩いて島根県立美術館に向かう。夕方の風景を描いた絵画の企画展をしていた。一応全部に目を通したが,それで疲れてしまい,中二階のソファーで横になって寝ていると,女性の館員の方が不振に思ったのか,大丈夫ですかと声を掛けてくれた。大丈夫ですといって起き上がった手前,館員の方がいなくなってももう一度横になることが気持ち上できず,ソファーに座ってボーっと外を眺めていた。

帰りは疲れたのでバスで駐車場近くまで行くことにした。

帰路,大山にも寄る予定を立てていたが,寄らずに直帰する。

(2019年10月9日 水曜日 晴れ)

石見銀山


稲刈りを8割方終えたところで松江まで妻と一泊旅行に行くことにした。妻とのほんのちょっとした会話のなかで,どっか旅行に行きたいねという提案があって,インターネットで調べたら直近の日付なのに旅館が空いていた。そこで思い切って1泊旅行に行くことにしたのだ。

心配は我が家の飼い猫の世話である。その猫は屋根か木から落ちたのか知らないが,背骨を骨折して,一時期半身不随になっていた。獣医の先生の適切な治療と我々の本当に献身的な世話のお陰で,歩けるまでに回復したのはいいのであるが,下半身に神経が十分に伝わらないせいで,自分で排便排尿ができない。1日になんども圧迫排尿をしているのである。そこで飼い猫は行きつけの動物病院に預かってもらうことにした。

松江は次男の伴侶の里がある地域である。出雲には以前行ったことがあるので,今回は石見(いわみ)銀山に行くことにした。

瀬戸中央道,山陽道,尾道道の高速道路を通り,三次(みよし)からは下道を通って石見銀山まで行った。石見銀山付近にはいろいろ見るところがあるようだが,時間の関係上,竜源寺間歩(まぶ)だけを目指して行くことにした。

下道をいっているときは対向車にほとんど出くわさなかったので,あまり観光客は多くないのではと思っていたが,駐車場に着くと以外にも多くの車が止まっている。しかも車のナンバープレートを見ると遠くからやって来た車が多い。さすが世界遺産のことだけはあるなあと感心する。

間歩(まぶ)は坑道をさす言葉のようである。公開されている間歩は竜源寺間歩しかないため,そこに向かう。駐車場から間歩までは歩行か電動自転車でいくしかない。歩いて行こうと妻と相談する。

道は車が1台通れるほどの生活道である。ちょうど雨が上がって,気持ちよい状態である。

古いけれど整備された民家が立ち並び,小学校や保育所が道の横にある。どれも趣(おもむき)のある建物である。さらに進むと建物は絶え,木々が道の両側にそびえ立つ。左手に水量豊かな小川が流れている。

竜源寺間歩に到達する。入場料を払い,間歩の中にはいる。間歩の高さが私の背丈より少し低いため,腰をかがめつつ前に進む。細くて小さな坑道がたくさん横に伸びている。這っていかなければ入れないような坑道も多い。先人の苦労が偲ばれる。

途中から,最近掘られたような坑道になり,出口に出る。

石見銀山では竜源寺間歩だけ見学し,玉造温泉の宿に向かう。車での遠出はすこし疲れたが,間歩までのウォーキングと間歩の中での体験は楽しいもので,来た甲斐があった。

(2019年10月8日 火曜日 曇りときどき雨)

稲刈り


今年は田に白い筋が目立つ稲が多く,妻が大変心配していた。農協の人に見てもらうとウンカによる病気だという。うちの田はまだよい方であるが,隣の田は一面葉が白い。

車で通行中に見る田にもところどころ稲が部分的に倒れている田がある。ウンカによって,稲の茎がやられたのであろう。

農協の人が言うにはウンカよりむしろカメムシの方が心配であるそうだ。

いつもより早めに稲刈りを行う。長男がコンバインの操作をしてくれたおかげで,私や妻は比較的楽な作業になった。収穫は少し少ないが,倒れもせず,がんばった稲に感謝しよう。

(2019年10月6日 日曜日 晴れ)

渡辺幸一と金纓

いつもは丸亀市の飯山図書館を利用しているのに,どうゆう訳かここ何週間か宇多津町の図書館を利用している。又吉直樹のまだ発売されていない小説「人間」の書評が毎日新聞に出ていると知って,飯山図書館に見に行ったのだが,あいにく飯山図書館は休館日になっていて,それで宇多津図書館まで出向いたのであった。

なぜ,まだ発売されていない書籍の書評がでるかというと,関係者にだけ配る試作本みたいなのがあるらしい。書評家はそれを読んで,さっそく書評におよんだようである。

新聞に掲載されたその書評は面白く読んだが,せっかくいつも来る図書館とちがう図書館に来たのだから,どのような本が収納されているか,見てみることにした。そのとき借りた遠藤周作のエッセイ「人生の踏絵」は最初の章に「沈黙」を書いたいきさつを記していて,面白かったが,次章以降はやや難解なキリスト教小説の話題になり,途中で放り出してしまった。

つぎに図書館へ行ったおり,渡辺幸一のエッセイ「イギリスではなぜ散歩がたのしいか?」を借りた。このエッセイはイギリスでの日常の暮しをユーモアを交えながら記してあり,楽しく読んだ。内容もさることながら,この著者が日本からイギリスに家族をともなって移住している事実に興味を持った。移住の苦労話もほんのすこしだが記しており,このような人生を送る人の気持ちの中味を想像するのが楽しかった。

つぎに借りたのが金纓(キムヨン)のエッセイ「それでも私は旅に出る」である。金纓は韓国人であるが,韓国に留学していた日本人と結婚し,二十歳をすぎてから日本に移住してきたひとである。キリスト教の女性牧師をしていたが,夫に先立たれ,子らはりっぱに成人したので,旅にでたという話である。その話じたいも面白いのだが,彼女の人生にも興味を持った。

渡辺幸一にしろ,金纓にしろ,私と違った人生を送っており,その苦労はいろいろあるだろうが,思い切った人生の送り方に感服せざるを得ない。2人のエッセイは私に新しい視点を与えてくれた。

(2019年10月3日 木曜日 曇りときどき雨)

有明浜


観音寺市の有明浜に向かう。有明浜は県内でも有数の観光地であるが,いままでに行ったことがなかった。それで一度行ってみようということになった。

妻にそのことを伝えると,では,あいむす焼を買ってきてほしいといわれる。いわゆる海老せんべいであるが,本物の小海老が使われているため,やや高価である。私は量の多い普通のせんべいの方が好みであるが,妻の要望とあれば仕方ない。あいむす焼のお店もウォーキングのルートに入れて出発する。

駐車場は琴弾公園内の無料駐車場を利用する。比較的朝早くだったため,駐車場は混んではいない。駐車場からすぐに有明浜に向かう。最初,浜のどのあたりを通って歩けばよいか思案したが,波打ち際のまだ海水で湿っているあたりが砂が引き締まっていて歩きよいことに気づいた。そこで波打ち際1,2mあたりをずっと海岸に沿って進む。

天気予報では曇りのはずが,晴天である。日差しはまだ強く,これは参ったと思ったが,思いのほか海風がさわやかに吹いて,暑さをあまり感じなかった。打ち寄せる波の音を聞きながらゆっくり散歩するのは気持ちよい。

浜にはカニの巣らしい1cmくらいの穴があちこちに空いている。海を見渡せば,漁船が2,3隻見え,その向こうには意外と近く感じるようにくっきりと伊吹島が見える。伊吹島は浜から見ると断崖絶壁の島のようである。切り立った崖が岸からそそり立っている。

有明浜の終わり近くなると日差しも強くなり,疲れもでてきた。入江為守の歌碑まで行ったが,難しい漢字の歌碑があり,読む気がしない。観音寺市街に戻る小道を進む。周りは人参畑である。砂地に植えているから,金時人参かもしれない。さらに進むと大きな化学工場らしき建物が目に入った。何の工場かと目を凝らしていると,阪大微研の工場であることがわかった。

道をさらに進み,神恵院(じんねいん)と観音寺(かんのんじ)にお参りする。

(写真は有明浜である)

10:30 駐車場 → 有明浜 → 11:10 有明浜4終点 → 入江為守の歌碑 → 人参畑 → 阪大微研 → 12:10 神恵院・観音寺 → 満久屋 → 13:00 駐車場

(2019年9月30日 月曜日 晴れ)


公渕公園


朝から雨の降りそうな曇り空である。日が差さない分ウォーキングにはよいと思い,今日は高松市郊外にある公渕公園に行った。公渕公園は公渕池を中心とした森林公園である。大きな木々の間に遊歩道が整備されている。土の遊歩道は多少の上り下りがあって,足のさまざまな筋肉を刺激する。

駐車場は何カ所もあって,それぞれが広い。平日であるけれど,車が何台も止まっていて,ほどよい賑わいである。

見たところ,ほとんどは散歩に来ているようだ。夫婦づれで歩いている姿を何度も見かけた。

駐車場からなるべく池沿いの遊歩道を歩く。地図を見ながら歩いているのだが,イマイチ現在の場所がどこなのかつかめない。

芝生の広場に出て,その向こうに休憩所らしい建物が見えたので,用をたしにそちらにいった。看板をみると森のギャラリーとある。なにか展示物があるのかと思ったが,なにもなくだだっ広い休憩所であった。

休憩場を後にして,池沿いの遊歩道を進む。竹の見本園があった。外から見ると細い竹が一面に生えているだけで,あまり感動もしなかったが,一応目印になる場所が見つかったので写真に撮っておく。

そこをすこし進むとちびっこ広場に出た。人っ子一人いない。

更に進むと池のふちが民有地になっているらしく,そこを迂回し,ふたたび遊歩道に入る。このあたりから周りは竹やぶになり,からだのまわりを飛ぶちいさな虫がひつこくついて回る。手で払いながら進む。

途中,小さな池があり,トンボが繁殖しているようだ。ただし,トンボの影はない。このあたりから竹やぶもなくなり,うるさい虫も数を少なくなった。

やすら木休憩所をすぎるとアスファルトの道になり,趣はなくなる。池の堤防のあたりの水面を見ていると水流が湧き上がっている個所があった。どのような理由で湧き上がってきているのかは不明であるが,池でこのようになっているのは初めて見た。

駐車場に戻り,近くの谷川製麺所でうどんの小を食した。250円なり。しっぽくの汁であるが,残念ながら自分で入れた汁の中には大根が3,4切れ入ったのみであった。素朴なうどんである。ゆっくり食べ,満足する。

(写真は池のふちで水流が湧き上がっている個所である)

10:50 駐車場 → 11:20 森のギャラリー → 11:35 竹見本園 → 11:50 ちびっこ広場 → トンボ池 → 12:30 やすら木休憩所 → 12:50 水流湧上り個所 → 駐車場

(2019年9月27日 金曜日 曇り一時雨)


青ノ山一周


本日は曇り空でまぶしい太陽を隠してくれる。久しぶりのウォーキングに適した日である。

青ノ山を一周してみようと思った。朝7時すぎに家を出,なるべく自動車の通らない生活道路を青ノ山のほうに向かった。

青ノ山墓地のすそ野を通って土器町の住宅地のなかの道を進むと田潮(たしお)八幡神社の入口が見えた。田潮八幡神社には初めて来たが,テレビのニュースなどでこの神社の秋まつりのようすをよくやっているので知ってはいた。この神社の秋まつりではみこしを土器川の川面に浮かべる。このようなやり方は他の神社にはないから絵になるのであろう。私自身はそのようすを実際に見に行ったことがないので,テレビのようすでしか知らないが,たしかにめずらしい。

神社のなかはきれいに清掃がされている。本殿にお参りをしていると,地域のかたが「おはようございます」と声をかけてくれた。あいさつを返し,神社を離れる。

宇多津の町なかにはいると神社,寺院がおおくなる。最初に出合うのが宇夫階(うぶしな)神社である。たいへん大きな神社である。この神社の秋まつりに練り歩く太鼓台が有名である。神社の本殿は近年再建されたものらしく鉄筋だてのモダンなものであった。本殿とおなじ境内のなかにある塩竈(しおがま)神社にもお参りする。石段を下っている途中,参詣する老夫婦に出合い,あいさつを交わす。

宇夫階神社から宇多津の旧市街地の道路を進む。道路が黒いタイル状のものと小石状のもので整備されていて,見た目がきれいだし,歩きやすい。

本妙寺の看板が見える。この寺は法華宗の寺らしく,入口の前に日蓮上人の像と日隆聖人の像が安置されている。像は日蓮上人のものが大きいが,リアルさは日隆聖人のものが勝る。そう思いながら本堂にお参りする。

さらに進むと78番札所の郷照寺に至る。このお寺はよくテレビで宣伝している厄除け寺である。宗派は真言宗と時宗の両方の混合したものらしい。そのためかどうか知らないが,厄除けを前面に出しており,すこし商売っけを感じられる。本堂と大師堂にお参りする。朝早いためか,3,4人の参拝者に出会ったが,いわゆるお遍路さん衣装のひとには巡り合わなかった。

郷照寺をあとにしてつぎに聖徳院に向かう。ここは聖徳大師を祀っているところである。境内の建物はりっぱである。信徒が多いのだろうと想像する。本堂にお参りする。

まだまだたくさんのお寺の案内看板があるが,少々疲れがでてき,お寺めぐりはこのくらいにし,帰路を急ぐ。

ゆっくり歩いたので時間はかかったが,気分のよいウォーキングであった。

(写真は宇多津図書館近くにある岸落地蔵院である)

7:10 自宅 → 8:20 田潮八幡神社 → 9:10 宇夫階神社 → 9:20 本妙寺 → 9:30 郷照寺 → 9:55 聖徳院 → 12:00 自宅

(2019年9月24日 火曜日 曇り)

小説と映画

最近,青春小説とその映画を読書し鑑賞した。吉田修一の「横道世之介」とリリーフランキーの「東京タワー」である。「横道世之介」はずっと昔に読んだが,病院に入院しているとき,その続編が出版され,妻に買ってきてもらった。「続横道世之介」も「横道世之介」に劣らず面白く読んだ。退院ちかくになり,病院内の待合の図書置き場をのぞいていると病院備え付けの図書として「東京タワー」が置いてあり,この本ははじめて手にするものであったが,これも面白く読んだ。

退院して,パソコンをさわっているとユーチューブに「東京タワー」がアップされていた。また,「横道世之介」はテレビで鑑賞した。

「東京タワー」が自伝的小説であるという点を除けば,両者とも青春時代の新鮮さ,苦悩を描いたもので,設定はよく似ている。しかし,両者を鑑賞したとき,違いがあることに気がついた。

本の面白さでは「横道世之介」の方が優れていると思う。ページを読み進めるとき,次の展開がどうなるのだろうか想像するだけでたまらない。一方,「東京タワー」の本は読み進めるのに躊躇というか,苦痛をともなった。この違いは文章のうまさ,構成の巧みさによるのかもしれない。

ところが映画の方になると,俄然「東京タワー」の方が面白いのである。「東京タワー」の自然なストーリー展開が映画にうまく生かされている。一方,「横道世之介」の映画はストーリーのわざとらしさがすごく気になった。小説ではそういうところがむしろ面白く感じられたのに対し,映画化するとそれが嫌味になるのである。これには私自身驚いた。

小説の名作が必ずしも映画の名作にならない典型なのかもしれない。

(2019年9月19日 木曜日 曇り)

又吉直樹と小山田浩子が新潮新人賞の選考委員に加わるというニュースを聞いて,小山田はどのような作品を書いている作家なのか興味を持った。本屋に行くと小山田の著書で「穴」と「工場」の2つの文庫本があり,「穴」の方が,ページ数が少なかったのでこちらを購入した。「穴」(小山田浩子,新潮文庫)は表題も少し不気味だが,内容も途中まで不気味に感じ,読み進みにくかった。ところが再読すると大変テンポのよい文章であることに気づく。

初読したとき読みにくかったのは2つの理由がある。1つ目は会話文を行替えせずに地の文とともに1つの段落にしていること。2つ目は1つの段落が比較的長いこと。実際はテンポのよい文章なのにそのテンポを感じられぬまま読み進んだ。

不気味さについてはこの本の表題にも関連する。この本の内容が30才前後の主婦の日常を描いているにもかかわらず,得体のしれない動物やその動物が掘ったらしい穴が出て来,主人公が穴に落ちるあたりの場面では不気味さが混じってなかなか先に進めなかった。元気なころの私ならば,そんな些細な不気味さはなにも感じなかったかもしれないが,今の私は身体だけでなく心も弱っているのであろう。不気味な展開になかなかついていけないのである。

再読すると,若い主婦が持つ生活の不安感が文章によく表されており,よい小説であると感じた。

私が若いとき,妻を愛(いと)しむ気持ちは強く自覚していたが,妻の不安感を推しはかることについては深く考えていなかったように思う。そのため妻から発せられる信号をうまく受け止めていなかった。

今日,子どもたち夫婦が我が家を訪れ,楽しい会話をしていってくれた。その楽しい会話の中でも,子供たちの妻たちはいろいろなことを発信し,夫たちが妻たちの発信音をうまく受け止めていないのを横で見ながら,かつての自分に重ね合わせた。

「穴」はそのようなことを再確認させられる小説である。

(2019年9月8日 日曜日 晴れ)

トットちゃんとあみ子

「窓ぎわのトットちゃん」(黒柳徹子,講談社文庫)と「こちらあみ子」(今村夏子,ちくま文庫)はともに発達障害児の天真爛漫(てんしんらんまん)な日常を障害児の視点から分かりやすい言い回しを用いて描いた文章である。どちらとも評判になった著作であり,特に「こちらあみ子」は最近読んで今までに味わったことのない読後感を味わった。

「トットちゃん」が著者の実体験に基づいたエッセイであるのに対し,「あみ子」は小説である。「トットちゃん」は主人公(著者)の視点から見た世界を楽しく描いており,主人公の周囲の人々の苦悩を深刻には描いていない。主人公(著者)がその後社会人として活躍していることを読者は知っているから,主人公や周囲の人々が幸せに暮らしましたという文章になっていても何ら違和感はなく,むしろ清々(すがすが)しく感じられる。

それに対し,「あみ子」は「トットちゃん」と同じ主人公の視線で文章を記述しており,同じくらいな天真爛漫さを描いているが,主人公の後ろにいる著者は主人公の周囲の人々にも丁寧な目配りをしているので,周囲の人の苦悩がそれとなく表現されている。そのため読後あみ子への共感と結局周囲とは上手くつながれない現状が切にわかるため,この小説をどのようにとらえればよいのかという不安な感覚を持つ。

「あみ子」の書評を見ると多くの人が私と同じような読後感を述べており,むしろそのような不安な感覚を持たせる著者の力量を評価する声が大多数を占めている。

そのような書評の中で,例外として太宰治賞の選評において,加藤典洋氏が主人公と周囲の人々の関係をあいまいなままにせず,明確化しなければならないと言っていることに注目した。

私は読後,むしろあみ子の周囲の人々の苦悩がよく描かれていると感じたので,加藤氏の選評を読んだとき,最初どのような主張なのかよくわからなかったが,何度かその選評を読み返すうち,私は障害者の周囲の苦悩を漠然とステレオタイプに理解し,それで分かった気になっているということに気がついた。主人公とその周囲の人々の苦悩は,私はこの小説で十分に発揮されていると感じていたが,加藤氏のように感じなければ通り一遍の共感に任せた読書になるのかとも思った。

(2019年9月4日 水曜日 晴れ)

早池峰山

一昨日から右側の肩甲骨あたりにむくみができ,どうしたものか右往左往している。天気はぱっとしない。暑くて気だるい日である。

早池峰山(はやちねさん,1913.4m)は花巻市,宮古市,遠野市に隣接する山塊であるが,どうしても遠野の山という認識になってしまう。古い言い伝えが豊富な遠野の里と神々しい早池峰が結びついてしまうのである。

早池峰山へは学生時代,2度ほど登った。最初は1人で,2度目は妻(となる女性)と妻の友人とである。

早池峰の直下に小田越という峠があり,花巻からその近くまで路線バスがあった記憶がある。その路線バスが鶏頭山の麓の岳集落までだったのか,小田越近くまで行っていたのかはよく憶えていないが,1泊目を小田越山荘という無人小屋に泊まった。

早池峰はハヤチネウスユキソウで有名である。ハヤチネウスユキソウはエーデルワイスの近隣種であり,ぜひ見にいきたいと思っていた。

小田越が既に1200mの高度にあるので,早池峰の頂に立つのは比較的容易である。小田越から早池峰まではほぼ直登する。登山道は大きな岩がゴロゴロしており,岩を登るようなものである。

頂上近くになると岩のあいだにウスユキソウが顔を出す。葉の部分も白い毛で覆われ,小さい花を咲かせている。「可憐」という言葉がぴったりの花である。岩手という雪深い地と岩に覆われた山がウスユキソウを育てたのであろう。

最初の登山は1976年の7月である。24歳の私はたいへん感動してしまったが,そこ頃はまだ妻(となる女性)と知り合っていなかった。妻と知り合ってから,是非もう一度妻と登ってみたいと思い,登ったのが2度目の登山である。そのときは前日に遠い地で用事があって,夜遅くに花巻からタクシーで小田越まで行った。妻たちは昼間に別便で小田越まで来ていたから,夜遠くにタクシーのライトが見えるのが異様な景色に見えたそうである。

(2019年8月24日 土曜日 曇り)

大東岳

大東岳(だいとうだけ,1365.4m)は面白山の南に位置する山である。

私が仙台にいたころは仙台から秋保(あきう)温泉経由二口温泉までの路線バスが何本か出ていたように記憶しているが,今は仙石線愛子(あやし)駅から二口温泉までの路線バスがあるようだ。今の路線バスは本数も少なく,そのためバスを利用した大東岳への日帰り登山は難しいようである。

その頃も路線バスを利用した登山は帰りのバスの発車時刻と下山の時刻の折り合いをつけるのに苦労した。多分,今では自家用車を利用して登り口の二口温泉まで便利に行けるから,登山は容易になっているであろうと想像するが,学生の身分である当時は鉄道かバスを利用するしかなかった。

アルバムを見ると1976年6月に大学の友人2人と大東岳に登った写真がある。24歳の頃である。1人で行ったり,他の友人と行った記憶もある。妻とも行った記憶があるのだが,妻に聞くと覚えていないという。遠い昔だから私の記憶の方が間違っているのかもしれない。

(2019年8月22日 木曜日 曇り)

面白山

40年ほど前,私は仙台で学生生活を送っていた。勉学,研究に励みつつ,九州にいたときに知った登山の面白さを仙台の地でも堪能していた。

面白山(おもしろやま,1264.3m)は宮城県と山形県の境にある山で,仙台からだとJR仙山線でそのふもとまで行くことができる。そのため休日を利用し,日帰りでよく登った。

下車駅は当時面白山駅と言っていたように思うが,現在は面白山高原駅という名前にかわっている。駅から山頂までは迷うことのない尾根道の登山道であった。そのため,ときには趣向を変え,道をずらして沢から登ったこともあった。そのときは途中で道がなくなり,やぶこぎのはめに陥ったが,上に登るにつけ木の丈が低くなり,足元は悪いが見通しの良い登山になった記憶がある。

面白山への登山はほとんどは単独行であったが,友人が仙台に遊びに来た折り,私と友人それとのちに私の妻となる女性と面白山に登ったことがあった。友人がそのころ写真に凝っていて,私とその女性との写真の撮ってくれた。アルバムに残されているその写真を見ると今もなつかしい。

妻とは仙台で知り合い,面白山への登山が最初の同行登山であった。その日の天気は良かったのであろう。遠くの山並みを見ながら3人でおしゃべりしたことを思い出す。

(2019年8月20日 火曜日 曇り時々雨)

むくむ

最近足がむくんでいて,少々困った状態に陥(おちい)っているのであるが,その足の状態とともに「むくむ」という言葉がなかなか頭から出てくれなくてそちらででも困ったいる。

「はれる」という言葉はすぐ頭から出るのに「むくむ」という言葉がなかなか出ないのだ。出てしまえば,「むくむ」も「はれる」も同じくらいなじみのある言葉なのにどうしてなのだろうとずっと考えていた。

「むくむ」は漢字で「浮腫む」と書くが,漢字の浮腫むがまず頭にイメージできていない。「浮腫」と「ふしゅ」という用語は常に連結していて頭の中でいつでも思い浮かべることができるのに,「むくむ」と「浮腫む」は頭の中でほとんど連結していない。「むくむ」という言葉が1文字の漢字と対応していたら,もっと様子は違っていたかもしれない。

多くの日本人がそうであろうと想像するのであるが,私たちは言葉を漢字というイメージとかなという音列の両方で頭の中に保持している。漢字とかなは頭の中でそれなりに強く連結しているが,連結が弱くても一方が頭の中で確固たる位置にあるならば,それから類推してもう一方の方を呼び出せる気がする。

しかし「むくむ」も「浮腫む」もそれぞれは私の頭の中にぼんやりとしかなく,その連結も弱い。だから自分の足の状態には確固たる認識があるのであるが,それを表す言葉が出てこない。それでは病院に行って説明するときに困るから,手帳にむくむという言葉を書き,ことあるごとに手帳を眺めている。

(2019年8月16日 金曜日 晴れ)

懸賞応募

職場を退職してから,さてこれから何をしようかと思案していた時期があった。後で考えると日常結構やることが多いのであったが,そのときは毎日手持ち無沙汰になってしまうと困るという強迫概念にとらわれていた。そこで新聞や地域紙の娯楽欄にある懸賞に応募してみようと考え,毎日せっせと応募した。

結果はことごとく当たらず,徒労に終わった。唯一当選したのがサッカーJ2の地元チームの観戦券で,これは夫婦して見に行った。懸賞応募などしたってしょうがないと悟り,しばらくするとそのような行動はしなくなった。

ところが先日,見慣れぬ化学メーカーから封書が届いた。なにかなあと不振に思いつつ開いてみると,大相撲大阪場所の升席招待の手紙であった。こんな会社の懸賞に応募したことあったかなあと疑(うたぐ)り深い目でその封書を眺めていたが,そうそう,農協の肥料のパンフレットにその懸賞の募集があったことを思い出した。

大相撲大阪場所は3月なので日にちや升席の位置は決まっておらず,追って決まり次第連絡するとのことである。さらに弁当やおみやげ付きでしかも交通費の一部もいただけるとのことである。これには驚き,妻ともども喜びの声を上げたのであった。

実は11月に次男の結婚式があり,今の病気の進行状況次第では結婚式に出席できるかどうか,妻と夜な夜な相談していたところであった。ところが人間,現金なもので3月に大阪場所を見に行けると考えると,負の考えが吹っ飛び,3月まで元気で居れるという根拠のない自信が湧いてきたのである。これには自分でも驚いた。

そうすると又吉直樹の「人間」が10月10日に発売になるというニュースもえらくポジティブにとらえることができた。これからが楽しみである。

(2019年8月13日 火曜日 晴れ)

ビワジャム


暑い夏の一日が続く。涼しいのは日の出後のほんの1時間くらいである。昨夜は孫たちとその親が集まって賑やかにしてくれた。今朝はその余韻にしたりつつ,静かに過ごしている。

はっさくのマーマレードの話を一昨日した。今日はビワジャムの話である。我が家には1本の大きなビワの木がある。この木は購入した苗木を植えたわけではなく,捨てたビワの種から自然に発芽したものが成長したのである。土地にあっていたのか,みるみる大きくなって,たくさんの実をつけた。熟れた実はあまい。ただ残念なのは実の容積の大部分を種が占めていることである。だから実が熟しても2,3個もぎ取って食べるくらいで,ほとんどを熟したまま腐らせていた。

はっさくのマーマレードの成功に気をよくして,私たち夫婦はいつも捨てているビワのジャム化に挑戦することになった。ビワは酸味がほとんどないのでマーマレードにはできない。ジャム化するにあたり,砂糖の分量をどのようにするかが問題になった。最初試作したときはビワの風味が出ていない甘すぎたしろものができあがった。それで砂糖の分量を減らし,レモン汁を加えるなどの試行錯誤を繰り返し,なんとかビワの風味のあるビワジャムが完成した。

1個のビワのうち,実の部分はほんの30%くらいなので,1ビンのビワジャムをつくるには大量のビワの実の皮むきをしなければならない。少ないときは気にならなかったが,多くの実の皮むきをするとアクで手が真っ黒になる。皮むきは主に妻がしてくれたが,ご苦労様としか言うしかない。

出来上がったビワジャムははっさくやダイダイのマーマレードとミックスし,パンに塗ったり,ヨーグルトとともに食した。最近朝食の献立がパン中心なのはビワジャムのせいかもしれない。

(2019年8月12日 月曜日 晴れ)

はっさくのマーマレード


妻からビワジャムについてブログに書いてほしいという要望を受け取った。ことし妻はビワジャムに夢中だったのである。ところがビワジャムについて語るためにははっさくのマーマレードについてまず語らなければならない。それで先にはっさくのマーマレードについて話そう。

昨年の話である。インターネットの料理のページを見ていたら,マーマレード作りのページが目に付いた。レシピを見るとあまり難しそうにない。そう思いながら調べていると,はっさくのマーマレードのページに目が止まった。

我が家には大きなはっさくの木が1本あって,毎年2,30個ほどの実をつける。我が家のはっさくはまあまあおいしいのだが,はっさくの性質上,温州みかんほどパクパク食べることができるものではない。まあ1週間に1個食べたらいい方である。はっさくの実は毎年かごに入れて収穫しているが,あまり食べないものだから大半は腐らせて捨ててしまうのが常であった。

それで,はっさくのマーマレードを作ってみようと思い立ったのである。職場を退職し,時間に余裕ができたのがそうする理由の1つになったのかもしれない。

最初3ビンくらいつくってパンにつけて食べてみた。そうすると少し苦いのだ。インターネットで調べてもはっさくのマーマレードはやや苦みがあると記してある。さらに,その苦みは皮の内側の白い部分であるのでそれを取ればよいとも書いてあった。それでつぎに白い部分をなるべく取り除き作り直すとまあまあ食べられるマーマレードができた。

そのようにしていると妻もマーマレード作りに興味を持ち,いっしょに作ってくれることになった。はっさく以外に我が家にはダイダイのちいさな木が1本あって,じゃあダイダイでもマーマレードを作ってみようということになった。ダイダイのマーマレードは意外にも苦みがまったくなく,おいしい。

そうすると欲が出るもので,ビワジャムも作ろうということになった。ところが昨年はビワの不作年でビワの実が1個もならなかったのである。それでビワジャムは今年に回された。その話は明日にしよう。

(2019年8月10日 土曜日 晴れ)

宮之浦岳

五時すこし前に目が覚める。まだ外は暗い。日の出がだんだん遅くなるのを感ずる。

さて昔の山の話の続きである。屋久島の宮之浦岳には柔道部の友人2人と登った。九州時代の登山の集大成ともいうべきものであったと思う。列車で小倉から鹿児島まで行き,夜行のフェリーで屋久島に渡った。宮之浦港からすぐに山に入った。最近は安房から入るルートの方がポピュラーであろう。山を少し行くと白谷山荘という無人小屋がある。ここで最初の1泊をした。その当時も屋久島への登山者は多く,無人小屋なのに九州本土の避難小屋にはない賑やかさがあった。

つぎの日,峠を越え安房川の上流をさかのぼり,ウィルソン株,縄文杉などの屋久杉が多く見られるルートを進んだ。今は保護のため柵で囲まれている縄文杉の根っこで当時記念写真をとったのがのこっている。登っている途中,腕の皮膚に違和感があってシャツの袖をめくりあげるとヒルがすいついていたことを思い出す。

長い登りをおえてやっと宮之浦岳の頂上付近に到達したとき,周りは雲で真っ白であった。なにかおかしい,登っているはずなのに上り坂でないと気づき,道を間違えたかなあと思って引き返すと,道の途中で道に石が積まれている。これはこの道を進んではいけないという印だと思い,少し引き返した。ときどき雲が切れるとうっすら頂上が見えるところで頂上まで行かずに下ることを選んだ。

友人の一人が足を痛め歩きずらかったこと,疲れがピークに達していたこと,頂上が雲で覆われて見通しが全くなかったことなどが頂上登頂断念の理由であろう。そのときまったく残念な気持ちが起こらなかった。

ローソク岩下の避難小屋でさらに1泊し,つぎの朝長い下りを下って行った。永田という集落にある民宿でさらに1泊し,帰路についた。民宿では予約もなにもしていないのに,夕食を用意してくれて,感激したことを覚えている。

(2019年8月9日 金曜日 晴れ)





祖母山

祖母山(1766.4m)を主峰とする祖母傾山系は九州を代表する山系である。大分県と宮崎県の県境にまたがる雄大な山々である。高さは九重連山の中岳(1791m)の方が高いが,九重連山へはその中腹までやまなみハイウェイが通り,アクセスがよい。それに加え,木が生えていない草原の山であるので,高さ,険しさをあまり感じない。それに対し,祖母傾山系は森林で覆(おお)われ,麓からアクセスするしかない。そのため,私の中では本当に山らしい山ととらえていたのである。

祖母山には柔道部の友人3名といっしょに登った。たぶん,私が3名を誘ったのだと思う。すこし山登りになれ自信をつけ,どのようなものを持っていけばよいかだんだん分かるようになってきていたのだ。

大学内で登山に行く前の記念写真がアルバムに残されている。竹田市からバスで山に入った。登りの勾配は急で,ほとんど周りの景色を見る余裕がなかったように思う。途中,上から下山者二人ずれと遭遇し,その一人がクラスの同級生と分かり,驚いたことを覚えている。彼も大学の終わりに近づいて,自分のしたいことをしようとしているんだなあと感じた。

頂上近くの九合目小屋に泊まり,翌朝,高千穂峡方面に下った。高千穂峡の記憶はあまりない。高千穂峡で3人と別れ,私が一人先に帰ったのかもしれない。

(2019年8月8日 木曜日 晴れ)

由布岳

昨日振込詐欺注意のはがきが送られてきた。朝食時に妻とその話題になった。実は約2年前に遡(さかのぼ)って医療費の補助を受けられることが判明し,一昨日から昨日にかけ,妻と通院でかかった費用の領収書を探して医療費の補助を受ける書類を作っていたのだ。無事に市役所に提出することができ,ホッとしたのだが,このようなことが詐欺電話でおこなわれるとまんまと騙されるのではと心配し合った。

さて昔の山登りの話である。久住山のつぎに登った山について考えていた。そしてそれは由布岳のような気がした。由布岳は久住山へ行くやまなみハイウェイバスからよく見えた。独立峰の山で,形が良い。登ってみたい山だった。

由布岳登山の記憶はあまり鮮明ではない。そのころカメラは持っていたが,一人で登山に行ったせいか,久住山のときと同様,写真が残されていない。

登山の途中,上を見上げればジグザグの道が続き,下を見ればいつまでたっても由布院の街並みが鮮明に目に捕らえられたことだけは憶えている。由布岳には避難小屋はないから日帰りで行ったのあろう。あるいは別府の安宿に一泊したのかもしれない。

(2019年8月7日 水曜日 晴れ)

久住山

私は山登りを趣味のひとつにしてきた。それで昨日から最初に山に登った経験を思い出そうとしていた。私は北九州市にある工業系の大学に通(かよ)っていたのであるが,クラブ活動は柔道をしていた。大学3年の夏で柔道には一区切りをつけ,柔道から離れた。

最初に登った山はどこだったのかと考えた。なんとなく英彦山だとずっと思っていた。英彦山は北九州市からそんなに離れてもいず,登るのが容易な山だからである。ところがアルバムを開けてみると,英彦山には大学4年の冬に登った写真がある。一面雪模様の写真である。それで,英彦山が最初に登った山ではないことが判明した。

じゃあ最初に登った山はどこだろうと思いを巡らし,久住山と結論づけた。別府からやまなみハイウェーをバスで久住山のふもとまで行って,そこから登った記憶がある。地図で確認すると牧ノ戸峠から九重連山に入る登山ルートがある。一人で行き,そのバス停に降りたのも私一人であった記憶がある。久住山(1786.5m)に登ったのか中岳(1791m)に登ったのかの記憶はあいまいであるが,中岳直下の避難小屋に泊まったのは憶えている。その当時も九州の山々の頂上付近には避難小屋が整備されていて,登山しやすい環境があった。どの避難小屋も無人の小屋なので,シュラフや食料は持参しないといけないが,本州の山小屋のようにギュウギュウで寝ざるを得ないことはなく,快適であった。

山小屋で一夜を過ごし,朝起きて外を見渡したとき,一面の霜に覆われていたことを思い出す。登ったのは大学3年の晩秋であったのであろう。山小屋から長い下りを竹田市の方に向かって下っていった。

登山に関して,もうひとつ記憶違いをしていることがあった。山に関する本をいろいろ読んだのだが,なかでも一番おもしろかったのは高田直樹さんの「なんで山登るねん」(山と溪谷社)である。痛快な山登りエッセイで3巻本を楽しく読んだ。それで私はこの本を読んだから自分が山登りに興味を持ったと思い込んでいたのだが,今調べてみると,この本が出版された年は私が26才くらいな年である。だから私が山登りを始める前にこの本を読んだのではないことがわかった。

遠い昔はなつかしいが,あいまいな記憶も多い。

(2019年8月6日 火曜日 雨)

おかっぱの少女

黒田三郎の詩につぎのようなものがある。

   賭 け

  (前段 略す)

ああ
そのとき
この世がしんとしずかになったのだった
その白いビルディングの二階で
僕は見たのである
馬鹿さ加減が
丁度僕と同じ位で
貧乏でお天気やで
強情で
胸のボタンにはヤコブセンのバラ
ふたつの眼には不信心な悲しみ
ブドウの種を吐き出すように
毒舌を吐き散らす
唇の両側に深いえくぼ
僕は見たのである
ひとりの少女を

  (後段 略す)

          黒田三郎詩集 (現代詩文庫) 「ひとりの女に」より

私には詩を鑑賞するほどの力はないが,茨木のり子著「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書)の中に載っている黒田三郎の詩を読んで,生まれて初めて詩集を購入した。特に

  ふたつの眼には不信心な悲しみ

のフレーズが気に入った。私が妻と出会ったのは,通学バスの中である。そのときのおかっぱのかわいいい少女と上記の詩の中の少女が私の頭の中でオーバーラップした思いがある。

遠い昔の話であるが,なつかしい思い出である。

(2019年8月5日 月曜日 晴れ)

生存バイアス

入院する前は地元の図書館で一週間ごとに又吉直樹の新聞小説を読んでいた。今年のはじめに入院したときもその小説を読んでいたかったので,妻に毎朝,新聞を買ってきてもらい,新聞小説の部分だけ切り抜いて保存していた。いま読み返してみると,入院時の様子と新聞小説の内容がオーバーラップして,不思議な気持ちになる。

入院して1週間目くらいのとき,小説で早稲田大学の教授が女子大学院生に対しおこなったセクハラを題材にした文章が出てきた。それで暇に任せその事件のことをネットサーフィンして,生存バイアスという用語を知った。

生存バイアスという用語は学校における行きすぎたクラブ活動の指導を説明するときなどによく出てくる用語らしい。指導者が生徒や学生に過多な練習を強(し)いり,アクシデントが起きたとき,指導者はよく,「自分も現役のとき苦しい練習を経て,栄光を勝ち取った。だから,この練習方法は私の実体験に基づいているものであって,効果があるものと確信している」と言い訳する。しかし,この主張の中には,苦しい練習によって挫折した者がカウントされていない。うまくいった者のみをカウントしている。これを生存バイアスというようだ。

私は教員をしている間,不勉強にもこの用語に接する機会がなかった。

私は学生に卒業研究の指導をしているときに,学校で定められた卒業研究の時間を過ぎ,帰宅しようとする学生につぎのように言ったものである。「卒業研究は時間をかけなければ,いいものはできない。放課後も残って卒研したらどうだ。」

いま考えると,教師から与えられた分からないテーマ(それはたいてい面白くないテーマでもある)を前にして,学生は一刻も早く卒研という作業から逃れたいと思っていたであろう。私が本当にすべきことは,そのような苦情を述べることではなく,面白いテーマにして学生の前に提示することであった。

過去のいろいろな不出来の事柄が頭をめぐる。

(2019年8月4日 日曜日 晴れ)

うつ病九段

最近は藤井聡太七段の活躍もあって,将棋を鑑賞する機会が増えた。先崎学九段の「うつ病九段」という書籍を手にとるようになったのも,そのような流れからかもしれない。

うつ病は現代ではたいへんポピュラーな病気である。うつ病で苦しんでいる人の手記をブログなどでよく見る機会がある。私自身はいくつかの大病をしたが,幸運にもうつ病になったことはない。だからうつ病について一家言あるわけではない。

しかし自分自身の体験を振り返って,1つのことがこころに浮かび上がった。

私は若いころ,数年大学院で研究に明け暮れ,その後数年間民間企業で製品開発に明け暮れした。この十年余りの期間は,私の人生で最も忙しい時期であったが,自分の力を存分に発揮したいという気持ちが強かったから,朝から夜遅くまで研究や仕事に没頭しても,つらいという気持ちはこれっぽっちも起きなかった。

ただ,大学院時代と民間企業時代で異なっていたのは,それまで頭痛を体験したことがなかったのに,民間企業に入ると毎週末頭痛がすることだった。そのため休日は寝て過ごすことが多かった。不思議なことに月曜日になると,頭痛はきれいさっぱりなくなっていた。

頭痛についてはまあいわゆる週末頭痛のたぐいであろうから,と特に気に留めることもなかった。ところが数年間の民間企業での勤務ののち,ある機会があって教育機関に勤めることになった。そうすると,何の対策もしていないのに頭痛がなくなったのである。その民間企業は働く環境としては,たいへん良いように思っていたから,頭痛の変わり具合については,ずっとどうしたのだろうと思っていた。

昨今働く現場で長時間勤務ののち,精神的やまいを患い,悪くすれば自殺に行きついてしまったというニュースを見かける。これらのニュースと自分の体験を照らし合わせると,傍目にはいい環境であってでも,またある場合には精神的やまいが発症しなくても,別の場合には精神的やまいは発症するということでないかと考えるようになった。

私はその民間企業の作業環境になんら不満はなく,その企業の従業員の扱いにもなんら不満はなかったが,ただそのまま勤めていて精神的やまいは発症しない,と言い切る自信はない。

そして,これは「うつ病九段」の受け売りであるが,精神的やまいは発症して体が少々不調になったくらいでは本人は病院に行く必要性を感じなく,またいったん発症すれば,その人の気持ちの持ちようで治るというたぐいのものではなく,きちんと医師の治療を受けなければ治らないということであるようだ。

(2019年8月3日 土曜日 晴れ)

話を聞く力

今年の初めに3週間入院し,2週間一時退院して,その後再び3週間入院することがあった。入院の初期は自分のことで精いっぱいな状態であったが,だんだん日が経つにつれ,周りの状況をそれなりに見れるようになってきた。

私の入院時の病棟は私も含め,完治する見通しが少ない病気を抱えている人が多かった。そのため,4人の大部屋であったにもかかわらず,患者同士がそれぞれの病気について話題にするようなことは少なかった。皆,静かにベットで過ごし,会話は付き添いの人や担当医,看護師に限られていた。

私はそれまでに何回か,入院した経験を持っている。いままでの入院では退院するとその病気がほぼ完治するたぐいの病気であったから,患者同士で病気や治療に関する情報交換をしたり,世間話をした。その経験から,入院すると患者同士の会話が弾むものと思っていたが,今度ばかりは違っていた。私自身,同室の人に自分の病気の内容をあまり話したくないし,同室の人の病気の内容も医師や看護師との会話から聞くともなく聞いていると,大変重そうでとても聞けない。そのようで,病室は大変静かに時間が過ぎていった。

しかしながらときどき,熱心な会話が始まるときがある。

それは患者と看護師の間でのことである。状態が苦しかったりしたときや排尿などがうまくいかなかったときに看護師さんのやさしい言葉がひとつのきっかけになって,患者の半生が延々と語られる。看護師は忙しいであろうに,「ふんふん」,「そうなの」と小1時間くらい,熱心に聞いている。このような光景は今までの入院体験ではあまりなかった。まさに堰を切ったというたとえのごとく,しゃべり始めるのである。

人は窮地におちいったとき,誰かに自分の内情をしゃべらずにはいられないのかもしれない。また,看護師さんが億劫がらず,熱心に聞いている態度にはほどほど感心させられる。

私は長い間,教師をしていたが,生徒や学生から堰を切ったような内情の告白をしてもらった経験がない。それはもちろん,私にそれをさせることができる力がなかったからであるが,その力が如何に大切であるかは,今となってしみじみと感じている。

(2019年8月2日 金曜日 晴れ)

赤トンボと青トンボ

朝から休耕田の代かきをした。

今年は休耕田の1枚を水張状態で管理しようと思っている。その田は,となりの田からの漏れ水が土の畔を通して流入し,乾いた状態でトラクターをかけることができないためである。

先週,田に水をひき,長男が最初の代かきをしてくれた。

そのときの代かきは草がだいぶ生えた状態でしたため,草をすべて土の中に埋めることができなかった。

今日の代かきは,しぶとく残っている草を土の中に埋めるためにするのである。

水は十分ではないが,まだ残っており,なんとか代かきできる状態である。

トラクターを使っていると,赤トンボ(アキアカネ)が一匹,トラクターの周りを飛んできた。餌を取りに来たのか,それとも田んぼの水たまりに子を産もうとしていたのか。

赤トンボを眺めながら,田を耕していると,つぎに青トンボ(シオカラトンボ)がやはり一匹やってきた。

まだ,トンボは群れをつくるところまではいっていない。これから,子を育てていくのであろう。

空は晴天で,雲ひとつない。暑い夏の朝である。

(2019年7月31日 水曜日 晴れ)

ツバメの巣立ち

10時ごろ,休耕田の草刈りをしようと思い,草刈り機を首肩に掛けて道を歩いていると,電線にツバメが2,30羽とまっていた。ツバメの群れはめずらしいと,しばし眺めていた。

やや小ぶりのツバメが多いことに気づいた。そうか,ツバメが巣立ちしたのだなあ,と思った。

少し前までは,親鳥が餌を取ろうと,水田の水面をせわしく飛んでいたことを思い出した。やっと子が一人前になったのである。

かつては,我家にもツバメが巣をつくっていた。それが,玄関を始めとする戸がきっちり閉められ,ひさしの長い納屋もなくなったため,巣をつくる場所がなく,しばし,我家からはツバメのヒナの鳴く声はしなくなった。

そのため,ツバメの巣立ちの時期も分からず,いつのまにか,ツバメから関心が遠ざかっていた。

あらためて,電柱にとまって,休むツバメの群れを見ると,なつかしい気持ちになった。

子のツバメが大きく成長し,南に渡る日を静かに見守っていたい。

(2019年7月26日 金曜日 晴れ)

梅雨明け

長い梅雨の時期が過ぎて,やっと梅雨が明けた。

今年は梅雨入りの時期も遅く,梅雨入りする前は,梅雨が本当に来るのかなあと思っていたものだった。

梅雨が明け,朝,セミがいっせいに鳴きだした。蜘蛛も巣を張り巡らしているようで,蜘蛛の巣にかかったセミが2匹,無様な羽音をたてている。ほうきで,巣にかかったセミをのけてやる。セミは下に落ちたが,さて,命拾いできたものかどうか。

まだ,湿気は高く,ムシムシするが,気温はぐんぐん上がっていく。

昨日は,病院で大腸カメラによる検査を受けた。特に異常がないとのこと。少し安心する。

久し振りに塩分普通目のカレーライスを食べ,満足する。

(2019年7月25日 木曜日 曇り)

草刈り

昨日は雨が降ったり,止んだりの落ち着かない一日だった。

久し振りに草刈り機で,果樹の下草を刈ろうと計画していたが,なかなか雨が止む気配がない。

2時すぎにやっと雨が上がり,草刈りの準備をする。

ここずっと家のなかでブラブラしているばかりなので,体を動かすのは本当に久し振りである。草刈り機に燃料を補給し,エンジンをかける。なかなか,エンジンがかからなかったが,10回ほどエンジン始動用のロープを引き,やっと始動した。

最初,ビワの木の下,次に柿の木の下の草を刈る。やぶ蚊が首筋を目掛けて飛んで来,それが気になって,なかなか草刈りが進まなかったが,しばらくすると,やぶ蚊の存在もあまり気にならなくなった。草を刈り進めて,やぶ蚊の休む場所がなくなったせいかもしれない。

草は背高く伸びているが,長雨のせいか,ひょろひょろしており,刈りやすい。

ビワと柿の木の下の草刈りを終え,次にはっさくの木の下の草を刈る。はっさくの木の枝が大きく伸びているため,木の下にうまくもぐり込めず,刈りにくい。

1時間ほどでほぼすべての草刈りを終える。意外と疲れが少ない。

家に戻り,汚れた衣服を洗濯機に放り込んで,シャワーを浴びる。心地よい疲れである。

(2019年7月23日 火曜日 曇り)

毎日のこと

毎日,何かすることがあるのは,大変な喜びである。

大したことでなくても,することがあるのは嬉しい。

最近は,1時間ほど,パソコンに向かっていても,目がしょぼついて来て,すぐに布団で寝そべることが多い。そのような,何もしない日でも,目が覚めて,さあ,昼ごはんの時刻だと思うと嬉しい。

こういう気持ちは入院中はあまりなかった。

家にいると,ほとんど何もしないし,なにか特別なことができる訳でないが,ご飯を食べたり,本を読んだり,パソコンをいじったりすることができるだけでも嬉しさがこみ上げてくる。

周りに,孫の声やその母親たちの話し声が聞こえることが,気持ちを安らかにしているのかもしれない。

今日,胃カメラ検査をしてきた。する前は,大変怖気(おじけ)づいていたのであるが,思っていたより,短時間で終わったこと,苦しさもさほどでなかったこともあって,今日は大仕事を終えたと安堵している。

ほんとうは,大仕事でもなんでもないことであるが,今日,一日,することがあって,それをやり終えたという満足感がある。

これからもこういう気持ちでいられるとうれしい。

(2019年7月19日 金曜日 雨)

ういろう


先週,長男が出張のお土産に阿波ういろうを買ってきてくれた。

ういろうとは,米粉を蒸して,甘く味付けした菓子である。

今は実家の近くに住んでいる長女が,長野県で暮らしているとき,帰省時のお土産の定番は,伊勢の赤福であった。あるとき,私が,ういろうが食べたいといったため,お土産にういろうを買ってくることになった。

私がういろうをおいしそうに食するものだから,父親はういろうが大好きだというのが定説になってしまった。

ちなみに,他の家族はういろうに手をださない。

ういろうはようかんと違って,プリプリ感がまったくないし,ネチャネチャしているので,食後感もあまりよろしくない。それで,家族はういろうに手を出さないのである。

わたしはういろうのそのネチャネチャ感が大好きなのである。

特に名古屋のういろうは甘さ控えめで,おいしい。

ういろうは名古屋や小田原が有名であるが,四国にもういろうの産地がある。徳島県や愛媛県である。

愛媛県のういろうは「志ぐれ」といって,これもおいしい。長女の連れ合いがやはり,出張のお土産に買ってきてくれたことがあった。

(2019年7月10日 水曜日 曇り)

玄関先の花


玄関先に,妻が丹念に世話をしているミニ花壇がある。

3,4年前に,長男か,長女の結婚式でいただいた鉢植えの花が,玄関先の花の最初であったようにおもう。

妻は,花が枯れたり,花が咲かなくなると,別の品種の苗を買ってきて,植え加え,いつも花が咲いている状態を保っている。

妻にとっては,玄関先の小さな鉢植えがぴったり性にあっているのかもしれない。

次男がそうゆうことを知ってか,知らずか,今年の母の日にアジサイの鉢植えを送ってきた。母の日のプレゼントとしては,初めてのことである。

アジサイは青色の可憐な花びらから,いまはやや緑がかった色に変わってしまっているが,玄関先の花の一員として,りっぱな務めをはたしている。

私の体調は,昨日,今日とよくない。

生きている度合いが80%くらいの状態である。ずっと寝ており,ときおり起きてパソコンをいじるが,10分とたたずにフトンに行く。

夕方,すこし涼しくなってきた。カエルの声がときおり,聞こえる。夕立でもくるのかしらと思いつつ,期待する。

(2019年7月8日 月曜日 曇り)

初ゼミ


涼しい風が朝から,部屋の中に吹き込んでくる。

昨日の将棋,藤井聡太七段対久保利明九段の熱戦の余韻を確かめるべく,パソコンでユーチューブを見ていると,突然,庭からミーンミーンの声が一斉にする。

今年,初めてのセミの声である。今まで雨で,地面に潜っていても苦しい環境にあっただろうに,ここ3日続きの晴れ模様で,土から地上に出てきたのである。

風は涼しいが,昼過ぎになると,日差しは強くなった。と同時に,セミの声もやんだ。

妻が,ミカンの木に羽化しているセミがとまっていると話している。

どれどれと思い,ミカンの木の下に行くと,大きなセミがえだにつかまって,じっとしている。飛び立つけはいはない。まだ,羽が十分に伸びていないのであろうか。

いよいよ,夏である。

雨はまだ降るであろうが,日差しはますます強くなり,外に出るのが億劫になる。

(2019年7月6日 土曜日 曇り時々晴れ)

ジャンボタニシ


雨模様が遠のき,久し振りの晴れである。雲はまだ,空を多く占めているため,晴天とはいかないが,野外活動をするには丁度良い。

昨日,病院に行き,あまり変わっていないとの診断であった。もともと,良くなる病気でないから,良しとしなければならない。マーカー値がわずかに上がってきていることが少し気になる。

夏間は長距離のウォーキングは差し控え,朝,夕の田んぼ仕事で過ごすことにしようと,妻と話し合った。

朝,田んぼを一回りすると,ジャンボタニシがだいぶ目立ってきた。まだ,稲の苗が小さいため,ジャンボタニシの格好の餌になっている。

長火バサミと大きめの缶詰缶を持って,ジャンボタニシ退治に向かう。

ジャンボタニシは正式名スクミリンゴガイといって,外来種の巻貝である。成長すると2,3cmの大きさになるが,いまはまだ,1cm以下のものがほとんどである。

精力的に動きまくる。苗に登り,苗の葉を水面まで倒して,葉を食ってしまう。被害が多い場合,一面の苗が全滅する。

駆除剤を撒くが,効果は限定的である。特に今年のような雨が続く天候の場合は,田に溜まった雨水を用水路に流すため,駆除剤も流れ出て,薬が効かない。

田を回り,ジャンボタニシを手作業で取り去るのみである。

あと一週間もすれば,苗も成長し,ジャンボタニシの被害を免れるであろう。それまで,運動を兼ねて,ジャンボタニシ取りにはげもう。

(2019年7月5日 金曜日 曇り時々晴れ)