月の満ち欠け

佐藤正午(さとうしょうご)の「月の満ち欠け」(岩波文庫的)を読んだ。人の死が別の人の生に記憶とともに引き継がれるという話である。最初はミステリータッチの展開で興味をそそられるが,中ほどから登場人物が多くなって混乱する。最後はうまく話を収(おさ)めており,それなりの読後感を得る。

このような話が現実に起こるとは思えないが,それと似たような話を昨夜,妻がし,この小説に私の気持ちが戻ったのである。

昨夜,末っ子夫婦と食事会をした。たいへんおいしい店の食事を楽しみながら,さまざまな話題を暖かい気持ちで話し合った。いい雰囲気でいつまでも話をしていたい気がした。その会話な中でのほんのちょっとした妻の一言が頭に残った。それは私の若いころにかかった大病のことである。

その話については,いままでいくども話題にのぼり,いささか陳腐な話題のひとつであったのだが,昨夜は私の祖母の長寿と関連づけて,命のバトンタッチの話になった。それは妻の単なるその場限りの思い付きの言葉であったと思うのだが,それが佐藤正午の「月の満ち欠け」と重なり合って,頭に残ったのである。

祖母の夫は50歳前後の年に亡くなった。私はその祖父が亡くなった後に生まれているので当然,祖父の面影は知らない。祖父が短命だったのとは正反対に祖母は100歳を全(まっと)うし,大変な長寿であった。妻は祖父の命が祖母の命を長引かせたといったが,その言葉は私も妻も,口から出まかせの軽い言葉であると受け取っていたのである。ところが,私が若いころの大病で生き永(なが)らえたのも,誰かの命のバトンタッチかもしれないといったのが私の頭に残った。

私の両親も60,70代でなくなり,もう少し長生き出来ていたのかもしれない。だけど,その命を若い私が受け取って,病気を克服したのだという気持ちになった。もちろんそのような考えは荒唐無稽(こうとうむけい)なもので,私自身,こじつけの,何物でもないものと思っているが,すこししんなりとした気持ちになったのである。

私も平均寿命を全うすることはない予定である。だけど私の命が誰かの長寿や大病の回復に寄与できると考える考え方は私自身の気持ちを安らかにできるなあとしみじみ思ったのである。

(2019年11月17日 日曜日 晴れ)