金山


谷町と江尻町の境界付近の登山口から金山(かなやま)に入る。登山口は家々の間の細い路地であるが,すぐに山林地帯になる。急傾斜の道をぐんぐん登っていく。思っていたより,深い森である。木は雑木林であるが,趣がある。

しばらく登ると最初の鉄塔が見えた。鉄塔の横を通り過ぎ,ややなだらかになった坂道を登る。このあたりから,落ち葉が道にたくさん落ちていて,見た目はいいのであるが,足元はすべりやすく,やや往生する。

2番目の鉄塔の付け根をとおり,先に進む。サヌカイトのかけらが落ち葉のあいだからよく見かけるようになる。やや黒い,先のとがった石である。

見晴らしのよい場所があり,そこから,番の州の景色を楽しむ。晴天なので遠くまで見える。工場の煙突の煙が真横にたなびいており,風の強さを感じさせる。

登り始めには小鳥の声がしきりにしていたが,今は送電線が風でうなる音のみが耳に響く。

送電線の鉄塔をさらに2つ通り過ぎたとき,木々のトンネルが現れた。トンネルの出口は金色にひかり,幻想的な雰囲気すら醸し出す。

さらに鉄塔をひとつ過ぎると頂上付近にでる。私の後から,若い3人の女性が登ってきて,追い越していった。こんにちはとあいさつを交わす。ついさっきまで,今日は誰にも会わないひとり道中であると思っていたので,驚きとともにうれしさがこみ上げる。

頂上の三角点はコースをすこし外れたところにあった。まわりは木々が生い茂り,まったく見通しはない。

下りに入る。急に幅広の道になる。常山との分岐点付近に石碑があって,この道は金山農道であるとしるしている。

長い下りを過ぎると,親潮神社に出た。

12:50 金山北登山口 → 鉄塔1 → 鉄塔2 → 鉄塔3 → 鉄塔4 → 鉄塔5 → 14:00 頂上 → 鉄塔6 → 14:25 常山分岐 → 親潮神社 → 御大師池登山口

(2018年12月29日 土曜日 晴れ 風強し)



聖池界隈


病院に行き,検査を受ける。自宅に戻ると,天気がたいへんよい。気分転換をかねて,聖池界隈を散策する。

聖池周辺は丸亀城と国道11号に挟まれた地域にあり,町名でいうと土器町,山北町,柞原(くばら)町にあたる。丸亀旧市内と国道11号をつなぐ道路が3本走っており,普段は車でその3本の道路を利用するだけであるから,歩いてその周辺をまわったことはない。

車から見ると,その周辺は民家がびっしり建てられており,全くの市街地のようであるが,わき道を歩くと,田畑と民家が混在した地域であることがわかる。

今回はやみくもに歩くのではなく,浄通寺,山北八幡神社,善照寺を結ぶ生活道路沿いを歩いた。

浄通寺は我が家の旦那寺である。浄通寺の前を通り,写真撮影する。開門していたので,本当は中に入り,お参りをしたいのであるが,これまでお寺とのやり取りは妻にまかせっきりであったため,恥ずかしい気持ちが先に立って,素直になかに入れない。本当にダメな自分である。

城東幼稚園前をとおり,聖池に向かう。稲の株だけが点在する田の間を進む。住宅街の向こうにお城がみえる。

聖池前の道路に到着する。この道路は労災病院前から来ている道路である。道路拡張工事をしているが,車からみる景色と歩いてみえる景色ではだいぶ違う。しばらく,聖池の堤を歩く。丸亀城,飯野山,大麻山などが遠くにみえる。

聖池を後にして,しばらく行くと道端に赤白の布をまとい,花を供えられた地蔵さまに出会った。新しい住宅街のなかにあって,古くからの香りをただよわせている。

住宅街を進むとふたたび車道に出た。車道のすぐ横に山北八幡神社がある。山北八幡神社は町中にあって,質素優美な神社である。

山北八幡の裏手を善照寺の方角に進む。

14:00 自宅 → 浄通寺 → 城東幼稚園 → 聖池 → 山北八幡宮 → 善照寺 → 国道11号 → 16:00 自宅

(2018年12月25日 火曜日 晴れ)

飯野山一周


年賀状も書き終え,郵便局に投函してきた。もう,とくにすることもない。板屋界隈をぶらつきながら,図書館に行こうと考えた。

自宅を二時半に出,板屋方面に行く。板屋地区は土器川と飯野山に囲まれた地域で,建設会社や電気店などがあり,開けた地域である。飯野地区地域づくり推進協議会が定めたふるさと探訪案内にしたがってぶらぶら巡る。

高速道路の下をくぐり,土器川に沿って進むと庄屋堀がある。いまはそこに農業用の電動汲み上げポンプ小屋が立っている。そこから,土器川沿いの細い道をいくと宇賀神社,安良多岐(あらたき)神社の小さな祠が見える。家々の裏側にひっそりとあり,ほとんど訪れる人もいない様子である。

細道を戻り,道路を進んで,母子地蔵に向かう。母子地蔵の横に「仰げ日の丸護れよ皇國」の石碑がある。戦時中の時代のものであろうか。

母子地蔵から南にのびる道を進む。板屋常夜燈が道の右手に,若宮大権現の小さな神社が道の左手に見える。

府中街道を渡り,裏門から板屋神社に入る。板屋地区の氏神様である。境内は広く,りっぱな拝殿,本殿を有している。正門の鳥居の前はロープで柵がしてある。自動車を境内に駐車させないようにしているのであろうか。

柵の横を通り,道路沿いを進むと高柳前庵に出る。松永家の墓地が多く立っている。そこからは図書館も近い。広い道路を渡り,図書館に進む。

図書館に行って,はっと気づいてしまった。本日は月曜日で,休館日である。いつもは多くの車が止まっている駐車場に一台も車がない。さあ,どうしよう。このまま帰るのもどうかと思い,飯野山を一周して帰ることにした。

坂元神社には今まで一度も行ったことがないので,寄ってみることにする。飯野山のふもとにあり,急な石段を登ると坂元神社がある。思っていたより,りっぱな神社である。石段の入口に神社の由緒を記した石碑が立っており,家に帰って調べてみると,坂元神社は由緒のある神社のようである。

坂元神社からはひたすら歩いて自宅にもどる。

14:30 自宅 → 16庄屋掘 → 15宇賀神社・安良多岐神社 → 14母子地蔵 → 11板屋常夜燈 → 12若宮大権現 → 9板屋神社 → 8高柳前庵 → 図書館 → 坂元神社 → 三の池 → 17:00 自宅

(2018年12月24日 月曜日 曇り)


坂元神社の石段の前に置かれている石碑には,以下の文言がある。

輝く星の氏子われ -坂本神社由緒-

秋風そよぐ夕まぐれ,飯野の山は神さびて,星のまたたく宵なりき。国持の里,鵜殿の越し,五の坪,倉前,馬倒し,古き地名は今もなお,ここなしここに残れども,世の盛衰はいちじろく。高木屋敷はいずこにや。梅の香りはなけれども,星の輝く丘なりき。

南海治乱記(なんかいちらんき)によれば,鷲住王(わしすみのおおきみ)は履中(りちゅう)の帝の皇后の兄なり。父をX魚磯別王(ふなしわけのおおきみ)と云う人となり。腕力あり,軽捷(からわざ)にして遠く遊び,帝しばしば召せとも應ぜず。摂津,住吉また阿波宍喰(あわししくい)にあり。一男野根命を生む後,讃岐富熊郷に居住し,多くの少年之に従う。薨(こう)じて飯山西麓に葬る。里人,祠を建て,これを奉ず。飯山大権現また飯山大明神とも称す。その後,康保元年,菅公修造を加え,軍神となす。祈れば必ず勇力を賜ると。

初め王に男あり。高木尊と云い,讃岐国造に任ず云々と,日本書紀にもあり。

鷲住王もその跡も,遠い遙かの昔より,命に輝く天の星。小さいながら私らも,これにつながり生きる星。飯野の山を仰ぐ時,輝く星の氏子われ,氏子のわれらここに輝く。

昭和六十年六月吉日 香川県史編集委員 草薙 金四郎

Xの漢字は左が魚で,右が市の上点を取ったものである。

飯神社


ここ3か月ほど,週一のペースで図書館通いをしている。又吉直樹の新聞小説「人間」を読むためである。

又吉直樹が毎日新聞夕刊に新聞小説を発表するというニュースを聞いたとき,私の住む地域では,夕刊は発行されていないので,読めないなあと諦めていたが,あるとき,妻のお供で図書館に行ってみると,朝刊に新聞小説が連載されているではないか。これにはびっくり。しめしめと思い,それから図書館通いしている。

図書館には,最初,車で行っていたが,健康のため歩こうと思い,なるべく歩いていく。

飯(いい)神社は飯野山のふもとにある神社で,図書館に行く途中にある。我が家の氏神様である。深い森の中にあり,素朴なたたずまいをしている。

飯神社の裏参道から登っていく。参道の両側は竹林になっているが,手入れはあまりなされていない様子で,竹の切れ端が竹林に無造作に捨てられている。

明日が正月に向けた飯神社の一斉清掃日であるため,参道はまだ笹の葉が一面に散らばっている。裏参道の石段を登り,飯神社にお参りする。飯神社の山手には,飯天神が祭られており,そこにもお参りする。飯天神の横には牛の石像が安置されている。

天神さんから降りてくると,男女二人ずれにお会いし,挨拶を交わす。飯野山登山のついでにお参りに来た様子である。

山門,祓殿をとおり,表参道から下る。

(2018年12月15日 土曜日 晴れ)

何できよんな

讃岐の挨拶方言に「何できよんな」というのがあります。表面的な意味は「どんなことして,すごしていますか」ということですが,それより,「お元気?」という挨拶代わりに使われることが多いようです。

私はこの言葉がなかなか苦手です。よく言われますが,どうしても「今,何してるの」と聞こえてしまい,何もしてないなあと心の中で思いながら,なんと答えていいか,わからなくなって,会話が弾みません。

私が一人で,森や野を散策するのを好むのも,私のこのような傾向に起因しているのかもしれません。

私が一人で森や野を散策しているとき,常にリラックスできているかと自問すれば,実はそうでないこともあります。

知らない森の道に入り,歩いていると,しばらくは周りの音に大変敏感になります。鳥が急に羽ばたいたり,声を出したりして,びくつくことがあります。また,木の擦れる音や枝が落ちる音に恐怖心に近い気持ちを持つときもあります。

私がリラックスできるのは,歩き始めて,20分とか30分経った頃です。体が温まり,周りの音が気にならなくなります。

そうすると,私は様々な空想に耽(ふけ)ることができます。木々や,道から見えるさまざまな景色に対し,勝手な空想で頭いっぱいになります。そのとき,私は本当にリラックスします。

リラックスできたとき,私は森や野を散策するのが本当に楽しくなります。そうして,またどこかへ行きたいなあと思うのです。


讃岐三崎灯台


讃岐三崎灯台がある荘内(しょうない)半島の先端部は,浦島伝説の地として知られている。そこには,生里(なまり),箱(はこ),不老浜(ふろま),糸ノ越(いとのこし)などの浦島伝説に起因する地名が残されている。

私は30年間,荘内半島の根元で勤務しておきながら,三崎灯台には今まで一度も行ったことがなかった。今日はすこし寒いが,昨夜からの雨も上がり,穏やかな日和である。軽トラックに乗って,三崎灯台に行ってみることにした。

荘内半島の先端部と根元部では文化,言語が全く異なるということを昔,知人から聞いた。その知人は大浜に里があり,詫間に嫁いだ人である。里と嫁ぎ先の距離は 2,3 km 離れている程度であるが,風習が全く異なっていたそうである。荘内半島先端部は瀬戸内海の文化圏に属しており,讃岐の文化圏には属していないからである。

生里(なまり)集落の道路脇に車を停めて,仁老浜(にろはま)集落に進む。道はアスファルト舗装で,以前来たときより,道幅が広がっている。集落内を進むと,手押し車を押して歩くご老人に出会った。こんにちはと挨拶をし,進む。浜の集落は決して新しい家があるわけではないが,寂れた感じがしない。港がすぐそばにあるせいだろうか。浜の片隅に公衆トイレがあったので,用を済ませ,岬道に入る。

道の両側は木々が茂り,木のトンネル状態になっている。枯葉の積もった道が続く。車の侵入は禁止されている道であるが,車一台が通れるほどの道幅がある。しばらく行くと室浜集落から来る道との合流点に来る。

さらに進むとどんどろ石という大きな石が道の脇にある。道は猪の掘り起こした個所がいくつもあり,多くの猪がこの地に生息していることをうかがわせる。

関の浦への分岐に来る。この分岐からは関の浦という浜辺に降りられるそうである。関の浦は今,人家はない。昔,この沖を通る船から通行税を採っていたところだそうである。また,この分岐から,三崎神社にも行けるが,三崎神社は後から行くことにし,三崎灯台の方に進む。

しばらく行くと,三崎灯台に出る。円筒状の灯台を想像していたが,箱状の灯台であり,すこしガッカリする。灯台の周りは木が茂っていて,見晴らしはもうひとつであるが,木々の間から,三崎の先端を通る船の数々を見ることができ,満足する。

妻の手作り弁当を食し,15分後,三崎灯台を発つ。

関の浦分岐から三崎神社に行く。古い石段を登ると,雰囲気のある山門がある。山門をくぐり,三崎神社に立つ。お参りをし,周りを散策する。日露戦争の慰霊塔がある。神社裏の本殿を覗くと,りっぱな建物がある。この土地の人々の並々ならぬ力を感ずる。

関の浦分岐点まで戻り,室浜合流点から室浜方面に行く。室浜は小さな集落であるが,家々はりっぱで,半島の離れ集落に来たという雰囲気はない。糸の越を通って,車を停めてある場所まで,ゆっくり戻る。

生里(なまり)→ 10:45 仁老浜(にろはま) → 室浜分岐 → 関ノ浦(せきのうら)分岐 → 11:30 讃岐三崎灯台 11:45 → 12:00 関が浦分岐 → 三崎神社 → 関ノ浦分岐 → 室浜分岐 → 室浜(不老浜ふろま) → 糸ノ越(いとのこし) → 仁老浜 → 13:30 生里

(2018年12月12日 水曜日 曇り時々晴れ)


白峰根香道1/白峰寺


高屋口から十九丁まで

白峰根香道は八十一番白峰寺(しらみねじ)と八十二番根香寺(ねごろじ)を結ぶ遍路みちである。白峰寺と根香寺は,高松市と坂出市にまたがる五色台という台地のふちにある。300 m から 350 m の高台の上にあり,平野部からは急峻な山道を登らなければならない。白峰寺と根香寺の間は起伏の少ない山道である。

本日は曇り空で,風もやや強いが,明日から気温が下がるという天気予報であるため,今日行こうと決めた。妻に高屋口まで車で送ってもらう。

高屋口からしばらくは車道に沿って登る。坂を登ってしばらくいくと,簡易トイレが道の横に用意されており,これはありがたかった。私のように年をとると,体を少し動かさないと通じが来ない。だから,登り始めて少し経ったところにある便所は大変ありがたいのである。設置された山本建設さんには感謝申し上げるほかない。

直線の坂を登ると突き当りに高屋神社がある。そこにお参りし,先に進む。坂出方面の平野部を見ながら登っていると,「ミカン持って行かんかね」とご婦人から声を掛けられる。山からミカンを収穫してきたばかりの様子である。6個もいただく。ありがたいご接待である。

しばらく行くと,車道から白峰の白い岩肌が見えた。なるほど,白峰である。車道の脇に白峰大権現の扁額が掛かった鳥居がある。ここから,白峰寺への急峻な参道が始まる。参道の横にはさまざまな和歌の碑が立ち並んでいる。

参道を登りきると,崇徳天皇陵と白峰寺への分岐点に来た。崇徳天皇陵の方に登る。静粛といた趣の石段があり,その上に天皇陵があった。天皇陵に手を合わせ,白峰寺に向かう。

白峰寺では,お経を唱える声がスピーカーから流れている。お遍路さんはほとんど見かけない。静かな境内である。

白峰寺の入り口まで戻ると,遍路みちを行こうとする一人のご老人にあった。いわゆる同行二人(どうぎょうににん)の文字がある笠を被っているが,服装はハイキング風である。その方の後を追って,遍路みちを進む。

少し登ると,摩尼輪塔がある。ここからはしばらく平坦な山道が続く。左側に墓地がある。普通の墓地と異なり,石仏も多く設置している。白峰寺関係者の墓地か,あるいは途中で亡くなったお遍路さんたちの墓地かと想像してみる。

自衛隊の演習地の横を通り,先に進む。風が強くなる。この山に入って気づいたことであるが,小鳥の声はあまりせず,カラスの声ばかりが大きく聞こえる。これは飯野山に登ったときと,真っ反対のことである。飯野山では小鳥の声ばかりで,カラスの声は全くしなかった。カラスはこの山を寝床にしているのであろうか。

少し下りがあり,再び登ると,三差路の十九丁に着いた。

10:00 高屋口 → 高屋神社 → 白峰大権現鳥居 → 崇徳天皇陵 → 10:45 白峰寺本殿 → 摩尼輪塔 → 12:10 十九丁

(2018年12月7日 金曜日 曇り)


崇徳天皇陵前にはつぎのような案内板がある。

白峰御陵(しろみねごりょう)と崇徳上皇(すとくじょうこう)

白峰御陵は崇徳上皇の御陵(お墓)です。都から遠く離れたこの地に御陵があるのはなぜでしょう。

崇徳上皇は保元の乱(1156年)で武運つたなく敗れ,讃岐国に配流(はいる)されてきました。讃岐在住8年,46歳(1164年)で崩御され,稚児ヶ嶽(ちごがだけ)の崖の上で荼毘(だび)に付され御陵が築かれたのです。

ここ,白峰寺や坂出市中町,林田町などには,上皇にまつわる伝説や,ゆかりの土地が数多く残っています。

なかでも玉章木(たまずさのき)(ケヤキ)の伝説は有名です。この伝説は崇徳上皇とホトトギスとの交流を描いたものです。上皇の悲運の生涯に同情し,長い間人々に語り継がれてきたのでしょう。

鳴けば聞く 聞けば都の 恋しきに この里過ぎよ 山ほととぎす

2017年1月 香川県・環境省

白峰根香道2/根香寺


十九丁から香西口まで

十九丁は白峰寺(しらみねじ)ルート,根香寺(ねごろじ)ルート,国分寺ルートの分岐点である。最初,白峰寺から根香寺に行き,そこから十九丁に折り返し,国分寺に下るルートを考えていたのであるが,十九丁に着いたのが12時を過ぎており,これでは根香寺から折り返して,国分寺に行くのは無理だなあとの思いが強くなりだした。

なお,十九丁というのは,香西口方面からの道の距離である。どこが起点かは分からないが,1丁が約 109 m であるそうだ。白峰寺付近は四十何丁になっていた。箸蔵街道では丁は単に石に刻んでいたが,白峰根香道では石仏に丁が刻んでいる。

遍路みちを進むと,車道に出,その横に中山休憩所があった。りっぱなトイレがあり,座れる休憩所があるが,展望所タイプの休憩所であるため,壁がなく,今日の強い風がまともに当たる。人っ子一人いない休憩所でサンドイッチをひとつ食べ,出発する。

車道をすこし進むと再び山道がある。この山道は車道のすぐわきにあるらしく,あまり森らしく感じられない。そうこうしていると,根香寺に到着した。

根香寺の脇には牛鬼の大きな像がある。根香寺の参道の石段を登ると,白峰寺で出会った人が前から降りてくる。こんにちはと挨拶を交わす。

本殿に進むと,本殿に行く通路は回廊になっており,回廊は真っ暗闇で,ほのかに灯篭がともっていて,神秘的な雰囲気を醸し出している。

根香寺を後にし,遍路みちを進む。根香寺からの遍路みちは本当に急峻な道になっており,つづら折りがずうっと続く。下りながら,ここを登ってくるのは大変だなあと思う。

山里に近づくと,遍路みちの片側の土が掘られている跡をよく見かけるようになった。猪の掘った後だなあと想像しながら,下る。山里の畑と山道の間には猪除けの柵がしてあり,そこを通り,ミカン畑に入る。

12:10 十九丁 → 中山休憩所 → 13:30 根香寺 → 猪除けの柵 → 15:00 香西口



根香寺の前にはつぎのような案内板がある。

山の中の寺・根香寺(ねごろじ)

根香寺は,急坂を登りつめた青峰山(あおみねざん)中腹にある,弘法大師により開基された,木立の中のお寺です。なぜ,このような険(けわ)しい山の中に建てられたのでしょうか。

奈良時代の仏教は,鎮護(ちんご)国家を目標としていましたが,平安時代になると仏教は,祈(いの)りやまじないが実現する不思議な力を得ようと,苦しい修行を重んじるようになりました。そのため,明るく華(はな)やかな場所でなく,人里離れた山の中にお寺を建て,山中を修業(しゅぎょう)の場としたのです(このような仏教のあり方を,山岳(さんがく)仏教といい,このようなお寺を山岳寺院といいます)。

お寺の境内(けいだい)に静かにたたずみ,自分の心を見つめてみましょう。また,ここは山の中です。目を閉じ,鳥の声,虫の声などに耳を傾けてみましょう。

今から約450年くらいの昔,このあたりに人間を食べる恐ろしい怪獣,牛鬼が棲(す)んでいて,人々を大変困らせていました。そこでこの地方の村人は,山田蔵人高清(やまだくらんどたかきよ)という弓の名人に牛鬼の退治を頼みました。高清は根香寺の本尊(ほんぞん)である千手観音(せんじゅかんのん)(重要文化財)に願(がん)をかけ,そのおかげで牛鬼を見つけ出し,見事に退治したそうです。

そして,怪獣の角を根香寺に奉納(ほうのう)し,その菩提(ぼだい)を弔(とむら)ったと伝えられています。

2016年7月 香川県・環境省

おなかのへるうた


大中恩(おおなかめぐみ)さんが亡くなった。

私自身は大中恩という人物をつい1か月ほど前まで知らなかった。1か月ほど前,我が家で,私の妻と息子の妻がその子(私にとっては孫であるが)をあやしていて,息子の妻が子に「どうしておなかがへるのかな♪♪♪~」と歌ってあげていた。息子の妻が子に歌って聞かせているのを,そのはたで私が聞くのは,私にとって大変新鮮であったが,もっと新鮮だったのは,その歌がその日,私が市民講座で練習した曲だったことである。

「その歌,知ってる」とつい,言ってしまった。

私は月に1回,市が開く市民講座で童謡や唱歌の練習をしている。30人余りの年配の人が参加して,講師の先生に教えられながら歌うのである。唱歌は聞き覚えのある曲が多いが,童謡は初めて聞くものばかりである。

おなかのへるうたも私には初めて聞く歌であったが,さすがに童謡である。2,3回皆で合唱すると,もう,よく聞く歌,よく知っている歌に変身してしまう。大きな声を出して歌うので,満足感もあり,いい気持ちで家に帰ってきた。そうしたら,練習してきた曲を家で再び,聞いたのである。

どうして おなかが へるのかな
けんかを する~と へるのかな

この曲を作曲した人物が大中恩である。

今日は今年最後の市民講座の日である。そして今日も,おなかのへるうたを大声を出して,再び歌ってきた。家に帰って,インターネットでニュースを見ると,大中さんが亡くなったという記事が目に入った。不思議なご縁である。ご冥福をお祈りします。

生涯学習センター前の広場

(2018年12月4日 火曜日 曇り)

飯野山


本日は朝から雨模様のため,外の作業はできないなあと思いながら,遅い朝食をとっていた。そうこうしているうちに,雨は小雨になった。漠然と外を眺めながら,そうだ,飯野山なら,なんの用意もいらずに登れると思い立った。

飯野山(いいのやま),別名讃岐富士は我が家から最も近い山である。それでいて,円錐形のきれいな形をしているので,最近,人気が出てきている。人気が出たもう一つの理由は,歩いてしか,頂上に立てないことである。本州や九州のちょっとした山では,それは当然のことであるが,香川県内に限っていうと,ほとんどの山は頂上まで車で登れる。だから,車用の登山道路がついていない飯野山は貴重なのである。

登り口は,飯野口,川津口,飯山(はんざん)口の3か所ある。我が家から最も近いのは,飯野口である。飯野口を少し登ると伊勢神社にでる。伊勢神社は山崎集落の家々が主な氏子の神社である。かつては森深い中にある神社であったが,すぐ横を高速道路が通るようになってから,静寂さにやや欠けるようになったのが残念である。神社はりっぱで,戦争犠牲者を慰霊する忠魂堂もある。

伊勢神社の横のアスファルト道路を上に登るとグリーンヒルという団地があり,さらに登ると野外活動センターに至る。ここが本当の登山口である。登山口から続く山道を行かずに,登山道とほぼ平行な石段を登る。この石段は,信貴山讃岐別院宝性寺跡に続く石段である。私が小学生のころには,宝性寺の本殿はまだあって,祭りの余興かで行われるくじ引きでにぎわっていたという記憶がある。本殿跡の裏手には大きな,2つに割れた石が今も残っている。

本日は小雨なので,山は静寂かと思いきや,鳥の声が多く聞こえる。こんなに鳥が多かったのかと思いながら,登る。前から,男女の二人づれが下って来,挨拶を交わす。川津口との合流点から少し進むと,後ろからお元気なご老人が登って来,私を追い越す。

中腹を過ぎると,もやで,前後の登山道がかすむ。ニャーオという声がするので,目を凝らすと猫がいる。こんな山の中腹になんでいるんだと,心配になる。さらに進むと,もやはさらに濃くなり,頂上に着いた頃には,10メートル先がよく見えなくなった。

おじょもの足跡があるところへ行くと,そこから下る細道がある。その細道はいままで通ったことがなかったが,飯野山ならば遭難することもあるまいと慢心し,下る。細道は急勾配で,思った以上に距離があった。本来の登山道に出たときには,急坂と小雨のため,少々疲れが出た。なお,この細道は本来の登山道に出たところで,ロープが張られていたから,通行禁止の細道であろう。

12:30 自宅 → 伊勢神社 → 宝性寺跡 → 14:20 飯野山頂上 → おじょもの足跡 → 15:00 通常登山道出会い跡 → 15:50 登山口

(2018年12月3日 月曜日 小雨)



椎尾長炭道1/椎尾八幡


椎尾八幡神社から大桑池まで

椎尾長炭道は,椎尾(しいお)八幡神社から長炭(ながすみ)橋までの山里道である。車が一台通れるほどの道幅があり,すべてアスファルト舗装がなされている。生活道路と林道を兼ねたような道である。今日はすこし寒いが,晴れて気持ちのいい日であるので,ゆっくり椎尾長炭道を歩いてみることにした。

妻に自動車で椎尾八幡神社まで送ってもらう。

まずは,椎尾八幡神社にお参りする。神社の周りに森が茂り,落ち着いた雰囲気の神社である。苔むした狛犬が優しく神社を守っている。小さな神社であるが,地域の人々が大切に守っているのを感ずる。

椎尾八幡神社から山里道を進む。道を進むと,すぐに,小さな池が右手に見える。また,田畑が右手に続いている。道の左側は山である。
民家がところどころにある。どの民家も小ぶりの家であるが,家の周りや道の端がきれいに草取りしている。例外なく,きれいである。これはこの地域の優れた習慣かもしれない。途中,浦田という集落の集会所があった。質素で,落ち着いた雰囲気の集会所である。

もう少し進むと,道の両側は林になった。道の端の落ち葉の中で,小さな石の祠があった。中には,表面が判別できない長方形の石が鎮座している。その石には地蔵様が彫られているのであろうか。判らぬまま,その祠に手を合わせる。
林の中をずっと進んでいくと,急に明るくなって,視界が開けた。大きな池に出たのである。道標には,大桑池(おぐわいけ)とある。

10:00 椎尾八幡神社 → 10:30 大桑池

(2018年11月30日 金曜日 晴れ)


椎尾八幡神社前にはつぎのような案内板がある。

四国のみち(四国自然歩道)
修験道と峠のみちコース  11.8 km
山びこのみちコース    10.9 km
長柄ダムと桜のみちコース  7.5 km

ここは,椎尾八幡神社です。その名のとおり境内には,シイの木が多く,こんもりとした森を形づくっています。境内のすぐ近くには,小川が流れ,夏ともなると,木陰でせせらぎの音をききながら休けいする人の姿が見られます。ここ,椎尾八幡神社には,四国のみちが通っています。

四国のみちは,四国を歩いて一周する自然歩道です。椎尾八幡神社を中心とする四国のみち3コースをご紹介します。3コースとも一般向けのコースです。
道の分岐点には,指導標が立っています。時間に余裕をもって歩きましょう。車でおいでの方も,次の機会に是非一度,歩いてみませんか。

■ 修験道と峠のみち(椎尾八幡神社-長炭橋 11.8 km)

椎尾八幡神社から長谷を通り,金剛寺を経て,満濃町の土器川にかかる長炭橋に至る 11.8 km のコース。
金剛寺をとりまく一帯は,金剛院と呼ばれ,その昔,修験道とゆかりのあったところだそうです。途中の長谷までは,4.3 km,ゆっくり歩いて約1時間半。金剛寺までは 9.0 km,約3時間。終点の長炭橋までは 11.8 km,約4時間の道のりです。

■ 山びこのみち(椎尾八幡神社-滝宮天満宮 10.9 km)

長谷を経て,学問の神様として知られる綾南町の滝宮天満宮に至る延長 10.9 km のコース。
椎尾八幡神社から大桑池の間は,展望が良く,楽しいハイキングになるでしょう。山里の自然を十分に味わって下さい。滝宮天満宮までは,ゆっくり歩いて約3時間半の道のりです。

■ 長柄ダムと桜の道(椎尾八幡神社-枌所バス停 7.5 km)

桜の名所としても知られる長柄ダムを経て,枌所(そぎしょ)バス停に至る 7.5 km のコース。
長柄ダムは水鳥の生息地となっていて,カワガラスやオシドリなどの水鳥を見ることができます。長柄ダムまでは 5.3 km,ゆっくり歩いて約2時間。終点の枌所バス停までは 7.5 km,約3時間の道のりです。

昭和62年度 環境庁 香川県

椎尾長炭道2/境場


大桑池から種子の池まで

大桑池(おぐわいけ)は池の一端がダム状の大変大きな池である。その池のふちを進むと境場(さかいば)集落に出る。集落といっても,家は点在しており,一か所に集まっている訳ではない。道の進む方向に高さを増しており,そこに大規模な段々田がある。ひとつひとつの田の面積が大きく,また,きれいな長方形をしている。大規模な農地改良を行ったのであろう。家々もひとつひとつが大変立派な建て前をしている。

境場集落を過ぎると,峠のようになっており,そこからは下りである。峠で工事関係の人が一人立っている。こんにちはと挨拶を交わす。その人がいうには,この下の橋で舗装工事をしているので,注意して行ってくださいとのこと。分かりましたと返事し,分かれる。

下り道の左側は沢で,左右両側とも木が密集して茂っている。途中,一軒家があり,家の前に小さな畑がある。畑には野菜が植えられているから,今現在も住んでいるのは間違いない。山の中の一軒家,というテレビ番組を思い出す。

だいぶ下っても工事らしいものは見えない。本当に工事しているのかと怪しんでいると,前から小型トラックが来て,乗ってくださいという。どういうことか分からないまま,助手席に飛び乗ると,工事現場まで連れて行ってくれた。どうも私が余りにもゆっくり歩いているものだから,しびれを切らして迎えに来てくれたようである。私が来るまでは,工事を中断していたらしく,そのような雰囲気を感じたので,すみません,すみませんといいながら,工事現場の中を通過する。工事の方々も,口々にご迷惑をおかけしますといってくれる。すこし,気まずかったので,足早やに工事現場から離れる。

工事現場の橋はちょうど長谷の出会いのところに架かる橋であった。長谷からは,2車線の道路の脇を再び登る。車両がひっきりなしに横を通過するので,やや興ざめする。途中,西行法師の石像があったので寄ってみる。
まんのう町の標識があるところからもう少し登ると,池に出た。

10:30 大桑池 → 境場集落 → 11:00 長谷 → 西行法師の石像 → 11:30 綾川町・まんのう町の町界 → 11:45 種子の池


大桑池のほとりにはつぎのような境場の案内板があります。

境場(さかいば)

  長谷から兜(かぶと),そして境場へと続くこの道は,古くから剣山詣りや,大山(だいせん)詣り,また阿波からの商人の通った道であった。
  坂を登りつめると兜,そして境場の盆地が広がる。青空や山々を静かに写す水面は,大桑(おぐわ)池。俗におんぐゎん池と呼ばれるこの池には,おもしろい話が残っている。

  昔,兜に「かぶと衛門(えもん)」という男が住んでいた。かぶと衛門は非常な大力であって,大きなとんが(唐鍬)三さらいで池を掘った。だから大鍬池といっていたのが大桑池になったというのである。池の下方には,百畝地(ひゃくぜまち)という田がある。これは持ち主が田の数を数えると一枚足りず,探したところタカラバチ(竹の皮の笠)の下に一枚あったなどという話が残っている程,小さい田ばかりのところであったことからこう呼ばれている。これもかぶと衛門がこしらえたのだと伝えられている。

  かぶと衛門についてはこの他にも,三斗三升のおはぎを一度に食べてしまったとか,千石船に積んだ米を帆柱にくくって持って帰ったとか,おならをしたら陶(すえ)の十瓶(とかめ)山まで響いた等という話が沢山残っている。
  境場というところ,どこから来ても山を登るか越してくる道である。
  そんな山道が平坦になり,人家があれば皆一服したであろう。かぶと衛門の話などはそんな時のかっこうな話題になったであろう。

昭和63年3月 香川県

椎尾長炭道3/金剛院


種子の池から長炭橋まで

種子の池で昼食をとり,15分後,出発する。ここから,再び,林道に入る。車も通らず,静かな道である。しばらく行くと,金剛院集落が見えた。案内板があり,ここから金剛寺が見えると書いてあるが,どの建物か分からない。どれも民家のように見える。

林道を外れ,金剛院集落へ向かう小道に入る。地図で確認しながら,金剛寺を目指す。途中,目の不自由な若者と出会う。散歩しているらしく,白杖を突いている。すれ違うとき,こんにちはと挨拶すると,気持ちのいい声でこんにちはと挨拶を返してくれた。
金剛寺は山間の平地の中ほどにあり,正面からは寺院らしいが,中の本堂は古びた民家とあまり変わりない。誰もいない様子である。本堂にお参りし,金剛寺を出る。

金剛院集落をゆっくり下っていく。集落の出口あたりに大柞池という大きな池があり,そのほとりに3体の地蔵が並んで鎮座している。お地蔵さんにお参りし,さらに下る。
大きな道路に出る前に,立派な石の常夜灯があった。電線がその常夜灯に引き込まれているから,まだ現役なのであろう。石台には明治の時代に作ったとの文言が刻まれている。

2車線の道路に出,長炭橋を目指す。長炭橋は工事中で,自動車は通れないようになっているが,歩行者は通れる。妻に迎えに来てもらう手筈になっているが,さて,橋のどちら側で待ち合わせたらよいものか,しばらく思案する。

12:00 種子の池 → 12:30 金剛院集落入口 → 金剛寺 → 13:20 大柞池 → 常夜灯 → 14:00 長炭橋


金剛院集落が見渡せる道の脇には,つぎのような案内板があります。

金剛院(こんごういん)部落と修験道(しゅげんどう)

ここから金剛寺を眺めることができます。

金剛寺を中心とする金剛院部落の地名はすべて仏教に因(ちな)んだもので,左の地図のように部落を取りまく峰や峠もすべて仏縁地名であるといえます。
金剛院部落の仏縁地名について考える一つの鍵は,金剛寺の裏山の金華山(きんかさん)が経塚群(きょうずかぐん)であるということです。

経塚は修験道との関係が深く,このことから金剛院の地域も,平安末期から室町時代にかけて,金剛寺を中心とした修験道の霊域(れいいき)であったと思われます。各地から,阿弥陀越(あみだごえ)を通り,法師越(ほうしごえ)を通って部落にはいった修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ,金剛寺や妙見社(みょうけんしゃ)(現在の金山(かなやま)神社)にこもって,看経(かんきょう)や写経(しゃきょう)に努め,埋経(まいきょう)を終わって後から訪れる修験者にことずけを残し,次の霊域を目指して旅立って行ったのでしょう。

昭和63年3月 香川県

また,金剛寺の前には,つぎのような案内板があります。

石仏(せきぶつ)山金剛(こんごう)寺

弘法大師が高野山開基以前,全国各地に清浄な聖域を求めて大寺院を建立しようとしていたところ,この地にその建立を試みたという話が伝えられ,金剛院(こんごういん)という部落名や部落内の仏縁(ぶつえん)地名もそれによって生まれたといわれています。

金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で,金剛院金華山(きんかさん)惣(そう)寺と称していたといわれ,楼門前の石造十三重塔は,現在は上の三層が欠けていますが,鎌倉時代中期に建立されたものです。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれ,各所に経塚(きょうずか)が営まれており,山全体が経塚だったと思われます。昭和27年の調査で発掘された陶製の経筒(きょうづつ)などが,当地に保存されています。部落の仏縁地名や経塚の状態から見て,当寺は修験道(しゅげんどう)に関係の深い,聖地であったと思われます。

昭和63年3月 香川県

牧野植物園


妻と高知までドライブに行く。行き先は牧野植物園である。牧野植物園の名は小さい頃より知っていたから,小学校の修学旅行で行ったのかもしれないが,あまり記憶に残っていない。したがって,今回の訪問が初めての訪問のようなものである。

高速道路のいくつものトンネルを潜り抜け,高知までやって来た。地図で見ると,牧野植物園は五台山の頂上付近にあるようだ。高知市内から五台山の頂上へ,車1台通れる幅の道を登っていく。これじゃあ対向車が来たら避ける所がないよねえ,と妻と話しながら登った。後で知ったことだが,この道は一方通行で,降りる道は別にあるのであった。

駐車場で車を停め,牧野植物園正門に進む。正門前の歩道の両側がすでに植物園になっているようで,普段見る雑草,雑木にひとつひとつ名札がついている。あまりにも多い名札であるので,ひとつひとつ見ることができない。すこし圧倒された気分で,漠然と見ながらチケット売り場に進む。

入ると,牧野博士の業績の展示場がある。また,さまざまな植物の模型が置いてある。蜂が花の蜜を吸うとき,どのような仕組みで植物が蜂の体に花粉をつけるか,その仕組みを説明する模型が置いてあって,妻がこれは面白いと,にぎやかに言っている。

通路を進むと,通路の横の石垣沿いに,日陰で,湿潤を好むいろいろな植物が植えられている。通路を過ぎ,薬草園の方に降りる。桜がきれいに花を咲かせている。こんな時期にも咲くのだなあと思いつつ,名札を見るとジュウガツザクラとある。なるほど,秋に咲く桜である。

いろいろ名札と草木を見比べながら進むと,タチバナという植物が目についた。たちばなという姓の友人がおり,たちばなという植物がありそうだなあと前々から思ってはいたが,かんきつ類の植物であったとは意外であった。

道の片隅に紫色の花が咲いていた。名札を見ると,ハナトリカブトとある。あの猛毒の植物がこれなのかと思いながら,可憐な花を眺めていた。

道の脇にランの展示場があった。入るとどれも大変地味なランが展示されている。野生のランとはまさにこのようなものかと感心した。中でも一番立派なランがあり,そのランには泰山という名がついていた。泰の一字を名の一部に持つ我が娘の地味さとこのランの地味さがぴったりだと,妻と余計な冗談を言いながら,散策した。

温室に入ると,沙羅双樹の木があった。沙羅双樹に思いを寄せつつ,暖かい温室を一巡した。

牧野博士展示場 → 日陰植物 → 薬草園 → ラン展示場 → 温室

(2018年11月3日 土曜日 晴れ)



天神峡


妻と井原(いばら)市の天神峡に行く。駐車場から天神社に行き,まずは用を済ます。天神社は高くて太い杉に囲まれている。天神様にお参りし,もみじ橋の方に行く。観光客が十名ほどあちこちを散策している。もみじ橋周辺は楓の木を中心とした紅葉で,色あでやかである。
もみじ橋を渡り,砂防公園の方に行く。砂防公園は小田川の支流中村川の砂防工事に付随して作ったのであろう。砂防公園の小田川の河岸に降り,妻と昼食をとる。岸べりに座って川面を眺めると,澄み切った水の中に小さな魚たちが泳いでいるのが見えた。川面に時折,落葉した葉が流れている他は何もない澄み切った水である。

食事を終え,小田川の上流に向かい,散策する。年配の人々がピクニックに来ているのか,数人で食事をしているところに出会った。一人が自分で作った大根であろうか,皆に配っていた。楽しそうな集まりである。

はずれに歌碑があった。

はやたつの かけひの水の なかれては にこりなき世の あふ瀬也けり
長和五年 善滋朝臣為改 詠

長和五年は平安時代である。

「早辰の 筧の水の 流れては 濁りなき世の 逢瀬なりけり」
早朝,庭の筧に水が清々しく流れています。それは清らかな世の中でのあなたと私の出会いのようです。という意味か。

小田川沿いに進むと,土砂崩れのあとが見える。川岸の木々がなぎ倒されている。台風による濁流のせいであろうか。この小田川の下流は今年,近年経験のない台風被害を受けている。
小さな橋を渡っているとき,川面にオシドリの群れが十数羽,泳いでいるのが見えた。静かな流れである。

駐車場 → 天神社 → もみじ橋 → 砂防公園 → 歌碑 → 小さな橋 → 駐車場

(2018年11月15日 木曜日 晴れ)


案内板には以下のような説明がある。

天神社

天神社創建年代は詳(つまび)らかではないが,「天神社誌」に次の様な話が記されている。
「延喜元(901)年菅原道真が太宰府に左遷される途中播州曽根(現兵庫県高砂市曽根)に立ち寄り,自らの像を刻んで『我を信仰ある所に落ちよ』と投げ上げた。像は当地に飛来し,これをみつけた村人たちによって祠(まつ)られ,以後天神社は吉井の氏神として信仰された」
ここに書かれた伝説のすべてを信じる事はできないが,曽根にも道真の伝説を残す曽根天満宮があり,幕末ともに一橋藩領であった吉井と曽根の関係を示しているのではないかと考えられる。
また,文明年間(1469~1486)に画聖・雪舟が天神社に詣で,そこに祠られていた道真の肖像画を天神山の重玄寺に持ち帰ったと言う。この伝説の画幅は昭和55年に重玄寺(芳井町吉井)の宝物の中から発見されて話題を呼んだ。
本殿・延宝三(1975)年,拝殿・文政四(1821)年,弊殿は大正四(1915)年の造営。例祭は十月の第四日曜日に行われている。

平成17年3月 井原市教育委員会

丸亀城


妻から丸亀市内のひまわりセンターまで物を届けるようにとの要望があり,通常ならば車でいくところ,本日は晴天であるので,散歩がてら歩いていくことにした。

土器川に架かる丸亀大橋の手前で,国道11号線を横断し,11号線に沿う歩道を西に下る。ガソリンスタンド脇を高津方面に向かう。ここから丸亀中心部に向かう主道路は歩道が整備されていないため,丸亀城に向かう生活道路を進む。

数名の児童らと付き添いの教師らしい集団が前を歩いている。揃いの運動服を着て,和気あいあいとしている。お城までいくのであろうか。私も周りの風景を楽しみつつ,ゆっくり後をついていく。

私は労災病院へ行く道に曲がり,児童らと別れる。労災病院から大手前高校を経て,ひまわりセンターに辿り着く。妻から預かった物をひまわりセンターの事務室に預ける。ひまわりセンターでは年配の人々がトレーニングセンターでさまざまな運動に励んでいる。

帰りは久しぶりに丸亀城によって帰ろうと,ふと思う。

丸亀城は私が中学生であった頃は木々が一面に茂り,下からは天守閣がわずかに見える程度であったが,いつのときか,名物の石垣がよく見えるようにとの配慮から,お城の上半分の木々を切り倒した。そのせいで,下からの見栄えはよくなったもののうっそうとした感じはすこし薄れた。

中学生の頃,市役所の横に洗心館という柔道場があって,そこで柔道のクラブ活動をおこなっていた。柔道に飽きたときは,トレーニングと称し,柔道着を着て,お城を数名でよくぶらついていたものである。あの頃と今ではお城も随分変わったようにも思えるし,変わらない部分も多い。

お城の遊歩道を歩いていると,石垣の上から大きい声がする。見上げると,来るときに出会った児童たちと同じ服装をした児童たちであった。はやく来た児童たちがさっそくお城に登り,後から来る児童たちに声を掛けているのである。

遊歩道を進むと,前から同じ学校の児童たちが数名の集団でやってくる。先生らしき人が「こんにちは」と挨拶してくれる。優しそうな教師たちである。

自宅 → 丸亀大橋 → 11号交差点 → 高津交差点 → 労災病院通り交差点 → 大手前高校前交差点 → ひまわりセンター → 丸亀城 → 高津交差点 → 11号交差点→ 丸亀大橋 → 自宅

(2018年11月2日 金曜日 晴れ)




箸蔵街道1/財田駅


讃岐財田駅から林道出会いまで

讃岐財田駅まで妻に車で送ってもらう。財田駅は無人のJR駅である。駅の中にトイレがあるので,そこで用を済ます。駅の駐車場では,自動車で2人づれの登山者が既に来ており,私より先に登りだした。

駅前の道を右に進む。周りの家は大きな構えの家が多い。踏切を渡り,四国のみちの標識にしたがって進む。周りには田畑が広がっている。稲は刈られた後であり,ネギが植えられた畑が見える。どの田畑も猪防止柵を設けている。舗装の道路から山道に入る。山道にも猪防止柵がしている。

それを進むと百丁石の案内板がある。この先から箸蔵街道が始まるというか,終わる。というのは,百丁石の番号は箸蔵寺から始まり,財田で終わっているからである。

すぐに工事用の舗装道路に出る。この上に砂防ダムがあり,その工事のためにつけられた道路である。砂防ダムは既に完成しており,周辺は静かである。

砂防ダムの手前から再び山道に入る。しばらく急登が続く。この辺りは落石が多いようで,危険防止を呼び掛ける案内板を多く見かける。急坂を登ると,少し坂が緩やかになる。そのまま進むと林道出会いに達する。

8:00 讃岐財田駅 → 踏切 → 百丁石案内板 → 8:50 林道出会い

(2018年11月10日 日曜日 快晴)


百丁石案内板には以下のような説明文が書かれている。

百丁石(ひゃくちょうせき)

明治8年(1875年)から明治10年(1877年)にかけて,大久保諶之亟(おおくぼじんのじょう)が太鼓木から石仏の中腹に6尺(1.8メートル)の新道をつくりました。この道は新街道とか太鼓街道ともいわれています。ここ荒戸には今も「箸蔵寺百丁」の道標が残っており,馬子唄や鈴の音がこだました往時の様子が偲ばれます。

これは,旅人に箸蔵寺(はしくらじ)までの里程を示してくれた丁石で,大きくて立派なものです。1丁は約109メートルであることから,この百丁石から箸蔵寺まで11キロほどであると,この丁石は教えてくれています。

道中には,まだ丁石が残っているところがありますので,ぜひさがしてみてください。

平成13年5月 香川県

また,砂防ダム下の山道入口には以下のような箸蔵街道の説明案内板がある。

箸蔵街道(はしくらかいどう)

箸蔵寺(徳島県池田町)は,こんぴらさんの奥の院とも呼ばれ,こんぴらさんに参拝した人は箸蔵寺にもお参りしたものです。箸蔵街道はこうした参詣人(さんけいにん)のための街道として栄えた道で,阿波街道の猪の鼻(いのはな)越えと共に,当時の重要な交通路でした。

毎日,二,三十人ずつの人が列をなしてこの街道をつぎつぎと行き来したそうです。また,農繁期前後には何百頭もの借耕牛(かりこうし)が鈴をならして通ったといいます。

二軒茶屋と呼ばれているところは昔茶屋が二軒あり,ほかに民家も二,三軒あったそうです。いまでは,茶屋も姿を消し,たった一軒残った民家で最近まで炭焼きの老夫婦がひっそりと山暮らしの日々を送っていました。

そのほか,明治末まで荒戸(あらど)のふもとに「さいはん」という大男が住んでいました。さいはんは毎日馬の背に米六斗(90キログラム)を積み,自分は三斗を負(お)って阿波通いをしたという話もあります。

ここから2.4キロほど上ったところには眺望のすばらしい休けい所があり,また,二軒茶屋から箸蔵寺の方にむかって約2キロほど行けば馬除(うまよけ)という山あいの集落もあります。

昭和61年3月 香川県

箸蔵街道2/林道出会い


林道出会いから展望休憩所まで

林道から木の階段状の山道が目に入る。それを登ると,すぐに小さなガレ場があり,ガレ場を通り過ぎたところにバイク,自転車防止柵が置かれている。このガレ場にはバイクが登ってくるのかもしれない。

木々の間から林道が見える。この辺りから左側が急斜面の山道が続く。少し平らな山道になったかなあと思っていると,再び左右が崖状態の山道になる。心細くなり,少しの物音にも敏感になる。ガサ,ゴソという音が左の斜面下から聞こえてくるので,猪に出会うとおっかないなあと思いつつ,恐る恐る下を見つめていると白いものが見える。よく見ると人が二人斜面に張り付いている。山菜か茸を採っているのであろうか。

そうこうしていると,見事な尾根道に出てきた。平らな道がしばらく続く。左右は木が茂っているため,見晴らしはないが,明るい木のトンネルをくぐっているようである。
再び,普通の森の山道に入る。少し登っていくと,再び見事な尾根道が現れた。たぶん,この部分は箸蔵街道のハイライトであろう。

少し急な斜面を登ると,展望休憩所の道標に出くわす。讃岐財田駅まで 3.4km,二軒茶屋まで 2.6km,箸蔵寺まで 8.0km,猪鼻峠まで 7.0km と印している。展望休憩所は脇に少し入り込んだところにある。

8:50 林道出会い → 2つの見事な尾根道 → 9:40 展望休憩所



箸蔵街道3/展望休憩所


展望休憩所から石仏峠まで

展望休憩所は立派な施設であるが,残念ながら展望がきかない。箸蔵街道は素晴らしい自然を有しているが,どこも展望がきかないのが残念である。休憩所の一画に野鳥の案内掲示板がある。高度のせいか,大高見峰に登ったときほど,野鳥の声がしなかった。

展望休憩所を後にして,尾根筋の道を登る。快適である。しばらくすると,こう配が急になる。ピークに近づいた印であろうか。六十八丁石が目に入る。百丁石の道標はほとんど見当たらなかった。箸蔵街道全体でも数個見つかるかどうかというくらいである。

森が明るくなり,前に薬師さんの案内板が見えた。案内板によると,薬師さんは大きな岩の上に鎮座しているようであるが,岩の上にはそれらしいものはない。

薬師さんから少しいくとそこが石仏峠である。石仏峠から阿讃山脈への縦走コースが延びている。

9:40 展望休憩所 → 六十八丁石 → 薬師さん → 10:25 石仏峠

薬師さんに関するつぎのような案内板がある。

薬師(やくし)さん

岩の上約3メートルのところに,薬師如来像が祀ってあります。正面に薬師如来が浮き彫りされており,「薬師/天保15年/辰2月吉日」と刻まれていることから,江戸時代のものであることは推測されますが,その由来,伝承等については,はっきりしたことは分かっていません。
むかしからこの付近は交通の難所であったため,阿讃の峠を越える旅の安全を祈願して祀られたものであることが想像されます。

平成13年5月 香川県