有明浜


観音寺市の有明浜に向かう。有明浜は県内でも有数の観光地であるが,いままでに行ったことがなかった。それで一度行ってみようということになった。

妻にそのことを伝えると,では,あいむす焼を買ってきてほしいといわれる。いわゆる海老せんべいであるが,本物の小海老が使われているため,やや高価である。私は量の多い普通のせんべいの方が好みであるが,妻の要望とあれば仕方ない。あいむす焼のお店もウォーキングのルートに入れて出発する。

駐車場は琴弾公園内の無料駐車場を利用する。比較的朝早くだったため,駐車場は混んではいない。駐車場からすぐに有明浜に向かう。最初,浜のどのあたりを通って歩けばよいか思案したが,波打ち際のまだ海水で湿っているあたりが砂が引き締まっていて歩きよいことに気づいた。そこで波打ち際1,2mあたりをずっと海岸に沿って進む。

天気予報では曇りのはずが,晴天である。日差しはまだ強く,これは参ったと思ったが,思いのほか海風がさわやかに吹いて,暑さをあまり感じなかった。打ち寄せる波の音を聞きながらゆっくり散歩するのは気持ちよい。

浜にはカニの巣らしい1cmくらいの穴があちこちに空いている。海を見渡せば,漁船が2,3隻見え,その向こうには意外と近く感じるようにくっきりと伊吹島が見える。伊吹島は浜から見ると断崖絶壁の島のようである。切り立った崖が岸からそそり立っている。

有明浜の終わり近くなると日差しも強くなり,疲れもでてきた。入江為守の歌碑まで行ったが,難しい漢字の歌碑があり,読む気がしない。観音寺市街に戻る小道を進む。周りは人参畑である。砂地に植えているから,金時人参かもしれない。さらに進むと大きな化学工場らしき建物が目に入った。何の工場かと目を凝らしていると,阪大微研の工場であることがわかった。

道をさらに進み,神恵院(じんねいん)と観音寺(かんのんじ)にお参りする。

(写真は有明浜である)

10:30 駐車場 → 有明浜 → 11:10 有明浜4終点 → 入江為守の歌碑 → 人参畑 → 阪大微研 → 12:10 神恵院・観音寺 → 満久屋 → 13:00 駐車場

(2019年9月30日 月曜日 晴れ)


公渕公園


朝から雨の降りそうな曇り空である。日が差さない分ウォーキングにはよいと思い,今日は高松市郊外にある公渕公園に行った。公渕公園は公渕池を中心とした森林公園である。大きな木々の間に遊歩道が整備されている。土の遊歩道は多少の上り下りがあって,足のさまざまな筋肉を刺激する。

駐車場は何カ所もあって,それぞれが広い。平日であるけれど,車が何台も止まっていて,ほどよい賑わいである。

見たところ,ほとんどは散歩に来ているようだ。夫婦づれで歩いている姿を何度も見かけた。

駐車場からなるべく池沿いの遊歩道を歩く。地図を見ながら歩いているのだが,イマイチ現在の場所がどこなのかつかめない。

芝生の広場に出て,その向こうに休憩所らしい建物が見えたので,用をたしにそちらにいった。看板をみると森のギャラリーとある。なにか展示物があるのかと思ったが,なにもなくだだっ広い休憩所であった。

休憩場を後にして,池沿いの遊歩道を進む。竹の見本園があった。外から見ると細い竹が一面に生えているだけで,あまり感動もしなかったが,一応目印になる場所が見つかったので写真に撮っておく。

そこをすこし進むとちびっこ広場に出た。人っ子一人いない。

更に進むと池のふちが民有地になっているらしく,そこを迂回し,ふたたび遊歩道に入る。このあたりから周りは竹やぶになり,からだのまわりを飛ぶちいさな虫がひつこくついて回る。手で払いながら進む。

途中,小さな池があり,トンボが繁殖しているようだ。ただし,トンボの影はない。このあたりから竹やぶもなくなり,うるさい虫も数を少なくなった。

やすら木休憩所をすぎるとアスファルトの道になり,趣はなくなる。池の堤防のあたりの水面を見ていると水流が湧き上がっている個所があった。どのような理由で湧き上がってきているのかは不明であるが,池でこのようになっているのは初めて見た。

駐車場に戻り,近くの谷川製麺所でうどんの小を食した。250円なり。しっぽくの汁であるが,残念ながら自分で入れた汁の中には大根が3,4切れ入ったのみであった。素朴なうどんである。ゆっくり食べ,満足する。

(写真は池のふちで水流が湧き上がっている個所である)

10:50 駐車場 → 11:20 森のギャラリー → 11:35 竹見本園 → 11:50 ちびっこ広場 → トンボ池 → 12:30 やすら木休憩所 → 12:50 水流湧上り個所 → 駐車場

(2019年9月27日 金曜日 曇り一時雨)


青ノ山一周


本日は曇り空でまぶしい太陽を隠してくれる。久しぶりのウォーキングに適した日である。

青ノ山を一周してみようと思った。朝7時すぎに家を出,なるべく自動車の通らない生活道路を青ノ山のほうに向かった。

青ノ山墓地のすそ野を通って土器町の住宅地のなかの道を進むと田潮(たしお)八幡神社の入口が見えた。田潮八幡神社には初めて来たが,テレビのニュースなどでこの神社の秋まつりのようすをよくやっているので知ってはいた。この神社の秋まつりではみこしを土器川の川面に浮かべる。このようなやり方は他の神社にはないから絵になるのであろう。私自身はそのようすを実際に見に行ったことがないので,テレビのようすでしか知らないが,たしかにめずらしい。

神社のなかはきれいに清掃がされている。本殿にお参りをしていると,地域のかたが「おはようございます」と声をかけてくれた。あいさつを返し,神社を離れる。

宇多津の町なかにはいると神社,寺院がおおくなる。最初に出合うのが宇夫階(うぶしな)神社である。たいへん大きな神社である。この神社の秋まつりに練り歩く太鼓台が有名である。神社の本殿は近年再建されたものらしく鉄筋だてのモダンなものであった。本殿とおなじ境内のなかにある塩竈(しおがま)神社にもお参りする。石段を下っている途中,参詣する老夫婦に出合い,あいさつを交わす。

宇夫階神社から宇多津の旧市街地の道路を進む。道路が黒いタイル状のものと小石状のもので整備されていて,見た目がきれいだし,歩きやすい。

本妙寺の看板が見える。この寺は法華宗の寺らしく,入口の前に日蓮上人の像と日隆聖人の像が安置されている。像は日蓮上人のものが大きいが,リアルさは日隆聖人のものが勝る。そう思いながら本堂にお参りする。

さらに進むと78番札所の郷照寺に至る。このお寺はよくテレビで宣伝している厄除け寺である。宗派は真言宗と時宗の両方の混合したものらしい。そのためかどうか知らないが,厄除けを前面に出しており,すこし商売っけを感じられる。本堂と大師堂にお参りする。朝早いためか,3,4人の参拝者に出会ったが,いわゆるお遍路さん衣装のひとには巡り合わなかった。

郷照寺をあとにしてつぎに聖徳院に向かう。ここは聖徳大師を祀っているところである。境内の建物はりっぱである。信徒が多いのだろうと想像する。本堂にお参りする。

まだまだたくさんのお寺の案内看板があるが,少々疲れがでてき,お寺めぐりはこのくらいにし,帰路を急ぐ。

ゆっくり歩いたので時間はかかったが,気分のよいウォーキングであった。

(写真は宇多津図書館近くにある岸落地蔵院である)

7:10 自宅 → 8:20 田潮八幡神社 → 9:10 宇夫階神社 → 9:20 本妙寺 → 9:30 郷照寺 → 9:55 聖徳院 → 12:00 自宅

(2019年9月24日 火曜日 曇り)

小説と映画

最近,青春小説とその映画を読書し鑑賞した。吉田修一の「横道世之介」とリリーフランキーの「東京タワー」である。「横道世之介」はずっと昔に読んだが,病院に入院しているとき,その続編が出版され,妻に買ってきてもらった。「続横道世之介」も「横道世之介」に劣らず面白く読んだ。退院ちかくになり,病院内の待合の図書置き場をのぞいていると病院備え付けの図書として「東京タワー」が置いてあり,この本ははじめて手にするものであったが,これも面白く読んだ。

退院して,パソコンをさわっているとユーチューブに「東京タワー」がアップされていた。また,「横道世之介」はテレビで鑑賞した。

「東京タワー」が自伝的小説であるという点を除けば,両者とも青春時代の新鮮さ,苦悩を描いたもので,設定はよく似ている。しかし,両者を鑑賞したとき,違いがあることに気がついた。

本の面白さでは「横道世之介」の方が優れていると思う。ページを読み進めるとき,次の展開がどうなるのだろうか想像するだけでたまらない。一方,「東京タワー」の本は読み進めるのに躊躇というか,苦痛をともなった。この違いは文章のうまさ,構成の巧みさによるのかもしれない。

ところが映画の方になると,俄然「東京タワー」の方が面白いのである。「東京タワー」の自然なストーリー展開が映画にうまく生かされている。一方,「横道世之介」の映画はストーリーのわざとらしさがすごく気になった。小説ではそういうところがむしろ面白く感じられたのに対し,映画化するとそれが嫌味になるのである。これには私自身驚いた。

小説の名作が必ずしも映画の名作にならない典型なのかもしれない。

(2019年9月19日 木曜日 曇り)

又吉直樹と小山田浩子が新潮新人賞の選考委員に加わるというニュースを聞いて,小山田はどのような作品を書いている作家なのか興味を持った。本屋に行くと小山田の著書で「穴」と「工場」の2つの文庫本があり,「穴」の方が,ページ数が少なかったのでこちらを購入した。「穴」(小山田浩子,新潮文庫)は表題も少し不気味だが,内容も途中まで不気味に感じ,読み進みにくかった。ところが再読すると大変テンポのよい文章であることに気づく。

初読したとき読みにくかったのは2つの理由がある。1つ目は会話文を行替えせずに地の文とともに1つの段落にしていること。2つ目は1つの段落が比較的長いこと。実際はテンポのよい文章なのにそのテンポを感じられぬまま読み進んだ。

不気味さについてはこの本の表題にも関連する。この本の内容が30才前後の主婦の日常を描いているにもかかわらず,得体のしれない動物やその動物が掘ったらしい穴が出て来,主人公が穴に落ちるあたりの場面では不気味さが混じってなかなか先に進めなかった。元気なころの私ならば,そんな些細な不気味さはなにも感じなかったかもしれないが,今の私は身体だけでなく心も弱っているのであろう。不気味な展開になかなかついていけないのである。

再読すると,若い主婦が持つ生活の不安感が文章によく表されており,よい小説であると感じた。

私が若いとき,妻を愛(いと)しむ気持ちは強く自覚していたが,妻の不安感を推しはかることについては深く考えていなかったように思う。そのため妻から発せられる信号をうまく受け止めていなかった。

今日,子どもたち夫婦が我が家を訪れ,楽しい会話をしていってくれた。その楽しい会話の中でも,子供たちの妻たちはいろいろなことを発信し,夫たちが妻たちの発信音をうまく受け止めていないのを横で見ながら,かつての自分に重ね合わせた。

「穴」はそのようなことを再確認させられる小説である。

(2019年9月8日 日曜日 晴れ)

トットちゃんとあみ子

「窓ぎわのトットちゃん」(黒柳徹子,講談社文庫)と「こちらあみ子」(今村夏子,ちくま文庫)はともに発達障害児の天真爛漫(てんしんらんまん)な日常を障害児の視点から分かりやすい言い回しを用いて描いた文章である。どちらとも評判になった著作であり,特に「こちらあみ子」は最近読んで今までに味わったことのない読後感を味わった。

「トットちゃん」が著者の実体験に基づいたエッセイであるのに対し,「あみ子」は小説である。「トットちゃん」は主人公(著者)の視点から見た世界を楽しく描いており,主人公の周囲の人々の苦悩を深刻には描いていない。主人公(著者)がその後社会人として活躍していることを読者は知っているから,主人公や周囲の人々が幸せに暮らしましたという文章になっていても何ら違和感はなく,むしろ清々(すがすが)しく感じられる。

それに対し,「あみ子」は「トットちゃん」と同じ主人公の視線で文章を記述しており,同じくらいな天真爛漫さを描いているが,主人公の後ろにいる著者は主人公の周囲の人々にも丁寧な目配りをしているので,周囲の人の苦悩がそれとなく表現されている。そのため読後あみ子への共感と結局周囲とは上手くつながれない現状が切にわかるため,この小説をどのようにとらえればよいのかという不安な感覚を持つ。

「あみ子」の書評を見ると多くの人が私と同じような読後感を述べており,むしろそのような不安な感覚を持たせる著者の力量を評価する声が大多数を占めている。

そのような書評の中で,例外として太宰治賞の選評において,加藤典洋氏が主人公と周囲の人々の関係をあいまいなままにせず,明確化しなければならないと言っていることに注目した。

私は読後,むしろあみ子の周囲の人々の苦悩がよく描かれていると感じたので,加藤氏の選評を読んだとき,最初どのような主張なのかよくわからなかったが,何度かその選評を読み返すうち,私は障害者の周囲の苦悩を漠然とステレオタイプに理解し,それで分かった気になっているということに気がついた。主人公とその周囲の人々の苦悩は,私はこの小説で十分に発揮されていると感じていたが,加藤氏のように感じなければ通り一遍の共感に任せた読書になるのかとも思った。

(2019年9月4日 水曜日 晴れ)