早池峰山

一昨日から右側の肩甲骨あたりにむくみができ,どうしたものか右往左往している。天気はぱっとしない。暑くて気だるい日である。

早池峰山(はやちねさん,1913.4m)は花巻市,宮古市,遠野市に隣接する山塊であるが,どうしても遠野の山という認識になってしまう。古い言い伝えが豊富な遠野の里と神々しい早池峰が結びついてしまうのである。

早池峰山へは学生時代,2度ほど登った。最初は1人で,2度目は妻(となる女性)と妻の友人とである。

早池峰の直下に小田越という峠があり,花巻からその近くまで路線バスがあった記憶がある。その路線バスが鶏頭山の麓の岳集落までだったのか,小田越近くまで行っていたのかはよく憶えていないが,1泊目を小田越山荘という無人小屋に泊まった。

早池峰はハヤチネウスユキソウで有名である。ハヤチネウスユキソウはエーデルワイスの近隣種であり,ぜひ見にいきたいと思っていた。

小田越が既に1200mの高度にあるので,早池峰の頂に立つのは比較的容易である。小田越から早池峰まではほぼ直登する。登山道は大きな岩がゴロゴロしており,岩を登るようなものである。

頂上近くになると岩のあいだにウスユキソウが顔を出す。葉の部分も白い毛で覆われ,小さい花を咲かせている。「可憐」という言葉がぴったりの花である。岩手という雪深い地と岩に覆われた山がウスユキソウを育てたのであろう。

最初の登山は1976年の7月である。24歳の私はたいへん感動してしまったが,そこ頃はまだ妻(となる女性)と知り合っていなかった。妻と知り合ってから,是非もう一度妻と登ってみたいと思い,登ったのが2度目の登山である。そのときは前日に遠い地で用事があって,夜遅くに花巻からタクシーで小田越まで行った。妻たちは昼間に別便で小田越まで来ていたから,夜遠くにタクシーのライトが見えるのが異様な景色に見えたそうである。

(2019年8月24日 土曜日 曇り)

大東岳

大東岳(だいとうだけ,1365.4m)は面白山の南に位置する山である。

私が仙台にいたころは仙台から秋保(あきう)温泉経由二口温泉までの路線バスが何本か出ていたように記憶しているが,今は仙石線愛子(あやし)駅から二口温泉までの路線バスがあるようだ。今の路線バスは本数も少なく,そのためバスを利用した大東岳への日帰り登山は難しいようである。

その頃も路線バスを利用した登山は帰りのバスの発車時刻と下山の時刻の折り合いをつけるのに苦労した。多分,今では自家用車を利用して登り口の二口温泉まで便利に行けるから,登山は容易になっているであろうと想像するが,学生の身分である当時は鉄道かバスを利用するしかなかった。

アルバムを見ると1976年6月に大学の友人2人と大東岳に登った写真がある。24歳の頃である。1人で行ったり,他の友人と行った記憶もある。妻とも行った記憶があるのだが,妻に聞くと覚えていないという。遠い昔だから私の記憶の方が間違っているのかもしれない。

(2019年8月22日 木曜日 曇り)

面白山

40年ほど前,私は仙台で学生生活を送っていた。勉学,研究に励みつつ,九州にいたときに知った登山の面白さを仙台の地でも堪能していた。

面白山(おもしろやま,1264.3m)は宮城県と山形県の境にある山で,仙台からだとJR仙山線でそのふもとまで行くことができる。そのため休日を利用し,日帰りでよく登った。

下車駅は当時面白山駅と言っていたように思うが,現在は面白山高原駅という名前にかわっている。駅から山頂までは迷うことのない尾根道の登山道であった。そのため,ときには趣向を変え,道をずらして沢から登ったこともあった。そのときは途中で道がなくなり,やぶこぎのはめに陥ったが,上に登るにつけ木の丈が低くなり,足元は悪いが見通しの良い登山になった記憶がある。

面白山への登山はほとんどは単独行であったが,友人が仙台に遊びに来た折り,私と友人それとのちに私の妻となる女性と面白山に登ったことがあった。友人がそのころ写真に凝っていて,私とその女性との写真の撮ってくれた。アルバムに残されているその写真を見ると今もなつかしい。

妻とは仙台で知り合い,面白山への登山が最初の同行登山であった。その日の天気は良かったのであろう。遠くの山並みを見ながら3人でおしゃべりしたことを思い出す。

(2019年8月20日 火曜日 曇り時々雨)

むくむ

最近足がむくんでいて,少々困った状態に陥(おちい)っているのであるが,その足の状態とともに「むくむ」という言葉がなかなか頭から出てくれなくてそちらででも困ったいる。

「はれる」という言葉はすぐ頭から出るのに「むくむ」という言葉がなかなか出ないのだ。出てしまえば,「むくむ」も「はれる」も同じくらいなじみのある言葉なのにどうしてなのだろうとずっと考えていた。

「むくむ」は漢字で「浮腫む」と書くが,漢字の浮腫むがまず頭にイメージできていない。「浮腫」と「ふしゅ」という用語は常に連結していて頭の中でいつでも思い浮かべることができるのに,「むくむ」と「浮腫む」は頭の中でほとんど連結していない。「むくむ」という言葉が1文字の漢字と対応していたら,もっと様子は違っていたかもしれない。

多くの日本人がそうであろうと想像するのであるが,私たちは言葉を漢字というイメージとかなという音列の両方で頭の中に保持している。漢字とかなは頭の中でそれなりに強く連結しているが,連結が弱くても一方が頭の中で確固たる位置にあるならば,それから類推してもう一方の方を呼び出せる気がする。

しかし「むくむ」も「浮腫む」もそれぞれは私の頭の中にぼんやりとしかなく,その連結も弱い。だから自分の足の状態には確固たる認識があるのであるが,それを表す言葉が出てこない。それでは病院に行って説明するときに困るから,手帳にむくむという言葉を書き,ことあるごとに手帳を眺めている。

(2019年8月16日 金曜日 晴れ)

懸賞応募

職場を退職してから,さてこれから何をしようかと思案していた時期があった。後で考えると日常結構やることが多いのであったが,そのときは毎日手持ち無沙汰になってしまうと困るという強迫概念にとらわれていた。そこで新聞や地域紙の娯楽欄にある懸賞に応募してみようと考え,毎日せっせと応募した。

結果はことごとく当たらず,徒労に終わった。唯一当選したのがサッカーJ2の地元チームの観戦券で,これは夫婦して見に行った。懸賞応募などしたってしょうがないと悟り,しばらくするとそのような行動はしなくなった。

ところが先日,見慣れぬ化学メーカーから封書が届いた。なにかなあと不振に思いつつ開いてみると,大相撲大阪場所の升席招待の手紙であった。こんな会社の懸賞に応募したことあったかなあと疑(うたぐ)り深い目でその封書を眺めていたが,そうそう,農協の肥料のパンフレットにその懸賞の募集があったことを思い出した。

大相撲大阪場所は3月なので日にちや升席の位置は決まっておらず,追って決まり次第連絡するとのことである。さらに弁当やおみやげ付きでしかも交通費の一部もいただけるとのことである。これには驚き,妻ともども喜びの声を上げたのであった。

実は11月に次男の結婚式があり,今の病気の進行状況次第では結婚式に出席できるかどうか,妻と夜な夜な相談していたところであった。ところが人間,現金なもので3月に大阪場所を見に行けると考えると,負の考えが吹っ飛び,3月まで元気で居れるという根拠のない自信が湧いてきたのである。これには自分でも驚いた。

そうすると又吉直樹の「人間」が10月10日に発売になるというニュースもえらくポジティブにとらえることができた。これからが楽しみである。

(2019年8月13日 火曜日 晴れ)

ビワジャム


暑い夏の一日が続く。涼しいのは日の出後のほんの1時間くらいである。昨夜は孫たちとその親が集まって賑やかにしてくれた。今朝はその余韻にしたりつつ,静かに過ごしている。

はっさくのマーマレードの話を一昨日した。今日はビワジャムの話である。我が家には1本の大きなビワの木がある。この木は購入した苗木を植えたわけではなく,捨てたビワの種から自然に発芽したものが成長したのである。土地にあっていたのか,みるみる大きくなって,たくさんの実をつけた。熟れた実はあまい。ただ残念なのは実の容積の大部分を種が占めていることである。だから実が熟しても2,3個もぎ取って食べるくらいで,ほとんどを熟したまま腐らせていた。

はっさくのマーマレードの成功に気をよくして,私たち夫婦はいつも捨てているビワのジャム化に挑戦することになった。ビワは酸味がほとんどないのでマーマレードにはできない。ジャム化するにあたり,砂糖の分量をどのようにするかが問題になった。最初試作したときはビワの風味が出ていない甘すぎたしろものができあがった。それで砂糖の分量を減らし,レモン汁を加えるなどの試行錯誤を繰り返し,なんとかビワの風味のあるビワジャムが完成した。

1個のビワのうち,実の部分はほんの30%くらいなので,1ビンのビワジャムをつくるには大量のビワの実の皮むきをしなければならない。少ないときは気にならなかったが,多くの実の皮むきをするとアクで手が真っ黒になる。皮むきは主に妻がしてくれたが,ご苦労様としか言うしかない。

出来上がったビワジャムははっさくやダイダイのマーマレードとミックスし,パンに塗ったり,ヨーグルトとともに食した。最近朝食の献立がパン中心なのはビワジャムのせいかもしれない。

(2019年8月12日 月曜日 晴れ)

はっさくのマーマレード


妻からビワジャムについてブログに書いてほしいという要望を受け取った。ことし妻はビワジャムに夢中だったのである。ところがビワジャムについて語るためにははっさくのマーマレードについてまず語らなければならない。それで先にはっさくのマーマレードについて話そう。

昨年の話である。インターネットの料理のページを見ていたら,マーマレード作りのページが目に付いた。レシピを見るとあまり難しそうにない。そう思いながら調べていると,はっさくのマーマレードのページに目が止まった。

我が家には大きなはっさくの木が1本あって,毎年2,30個ほどの実をつける。我が家のはっさくはまあまあおいしいのだが,はっさくの性質上,温州みかんほどパクパク食べることができるものではない。まあ1週間に1個食べたらいい方である。はっさくの実は毎年かごに入れて収穫しているが,あまり食べないものだから大半は腐らせて捨ててしまうのが常であった。

それで,はっさくのマーマレードを作ってみようと思い立ったのである。職場を退職し,時間に余裕ができたのがそうする理由の1つになったのかもしれない。

最初3ビンくらいつくってパンにつけて食べてみた。そうすると少し苦いのだ。インターネットで調べてもはっさくのマーマレードはやや苦みがあると記してある。さらに,その苦みは皮の内側の白い部分であるのでそれを取ればよいとも書いてあった。それでつぎに白い部分をなるべく取り除き作り直すとまあまあ食べられるマーマレードができた。

そのようにしていると妻もマーマレード作りに興味を持ち,いっしょに作ってくれることになった。はっさく以外に我が家にはダイダイのちいさな木が1本あって,じゃあダイダイでもマーマレードを作ってみようということになった。ダイダイのマーマレードは意外にも苦みがまったくなく,おいしい。

そうすると欲が出るもので,ビワジャムも作ろうということになった。ところが昨年はビワの不作年でビワの実が1個もならなかったのである。それでビワジャムは今年に回された。その話は明日にしよう。

(2019年8月10日 土曜日 晴れ)

宮之浦岳

五時すこし前に目が覚める。まだ外は暗い。日の出がだんだん遅くなるのを感ずる。

さて昔の山の話の続きである。屋久島の宮之浦岳には柔道部の友人2人と登った。九州時代の登山の集大成ともいうべきものであったと思う。列車で小倉から鹿児島まで行き,夜行のフェリーで屋久島に渡った。宮之浦港からすぐに山に入った。最近は安房から入るルートの方がポピュラーであろう。山を少し行くと白谷山荘という無人小屋がある。ここで最初の1泊をした。その当時も屋久島への登山者は多く,無人小屋なのに九州本土の避難小屋にはない賑やかさがあった。

つぎの日,峠を越え安房川の上流をさかのぼり,ウィルソン株,縄文杉などの屋久杉が多く見られるルートを進んだ。今は保護のため柵で囲まれている縄文杉の根っこで当時記念写真をとったのがのこっている。登っている途中,腕の皮膚に違和感があってシャツの袖をめくりあげるとヒルがすいついていたことを思い出す。

長い登りをおえてやっと宮之浦岳の頂上付近に到達したとき,周りは雲で真っ白であった。なにかおかしい,登っているはずなのに上り坂でないと気づき,道を間違えたかなあと思って引き返すと,道の途中で道に石が積まれている。これはこの道を進んではいけないという印だと思い,少し引き返した。ときどき雲が切れるとうっすら頂上が見えるところで頂上まで行かずに下ることを選んだ。

友人の一人が足を痛め歩きずらかったこと,疲れがピークに達していたこと,頂上が雲で覆われて見通しが全くなかったことなどが頂上登頂断念の理由であろう。そのときまったく残念な気持ちが起こらなかった。

ローソク岩下の避難小屋でさらに1泊し,つぎの朝長い下りを下って行った。永田という集落にある民宿でさらに1泊し,帰路についた。民宿では予約もなにもしていないのに,夕食を用意してくれて,感激したことを覚えている。

(2019年8月9日 金曜日 晴れ)





祖母山

祖母山(1766.4m)を主峰とする祖母傾山系は九州を代表する山系である。大分県と宮崎県の県境にまたがる雄大な山々である。高さは九重連山の中岳(1791m)の方が高いが,九重連山へはその中腹までやまなみハイウェイが通り,アクセスがよい。それに加え,木が生えていない草原の山であるので,高さ,険しさをあまり感じない。それに対し,祖母傾山系は森林で覆(おお)われ,麓からアクセスするしかない。そのため,私の中では本当に山らしい山ととらえていたのである。

祖母山には柔道部の友人3名といっしょに登った。たぶん,私が3名を誘ったのだと思う。すこし山登りになれ自信をつけ,どのようなものを持っていけばよいかだんだん分かるようになってきていたのだ。

大学内で登山に行く前の記念写真がアルバムに残されている。竹田市からバスで山に入った。登りの勾配は急で,ほとんど周りの景色を見る余裕がなかったように思う。途中,上から下山者二人ずれと遭遇し,その一人がクラスの同級生と分かり,驚いたことを覚えている。彼も大学の終わりに近づいて,自分のしたいことをしようとしているんだなあと感じた。

頂上近くの九合目小屋に泊まり,翌朝,高千穂峡方面に下った。高千穂峡の記憶はあまりない。高千穂峡で3人と別れ,私が一人先に帰ったのかもしれない。

(2019年8月8日 木曜日 晴れ)

由布岳

昨日振込詐欺注意のはがきが送られてきた。朝食時に妻とその話題になった。実は約2年前に遡(さかのぼ)って医療費の補助を受けられることが判明し,一昨日から昨日にかけ,妻と通院でかかった費用の領収書を探して医療費の補助を受ける書類を作っていたのだ。無事に市役所に提出することができ,ホッとしたのだが,このようなことが詐欺電話でおこなわれるとまんまと騙されるのではと心配し合った。

さて昔の山登りの話である。久住山のつぎに登った山について考えていた。そしてそれは由布岳のような気がした。由布岳は久住山へ行くやまなみハイウェイバスからよく見えた。独立峰の山で,形が良い。登ってみたい山だった。

由布岳登山の記憶はあまり鮮明ではない。そのころカメラは持っていたが,一人で登山に行ったせいか,久住山のときと同様,写真が残されていない。

登山の途中,上を見上げればジグザグの道が続き,下を見ればいつまでたっても由布院の街並みが鮮明に目に捕らえられたことだけは憶えている。由布岳には避難小屋はないから日帰りで行ったのあろう。あるいは別府の安宿に一泊したのかもしれない。

(2019年8月7日 水曜日 晴れ)

久住山

私は山登りを趣味のひとつにしてきた。それで昨日から最初に山に登った経験を思い出そうとしていた。私は北九州市にある工業系の大学に通(かよ)っていたのであるが,クラブ活動は柔道をしていた。大学3年の夏で柔道には一区切りをつけ,柔道から離れた。

最初に登った山はどこだったのかと考えた。なんとなく英彦山だとずっと思っていた。英彦山は北九州市からそんなに離れてもいず,登るのが容易な山だからである。ところがアルバムを開けてみると,英彦山には大学4年の冬に登った写真がある。一面雪模様の写真である。それで,英彦山が最初に登った山ではないことが判明した。

じゃあ最初に登った山はどこだろうと思いを巡らし,久住山と結論づけた。別府からやまなみハイウェーをバスで久住山のふもとまで行って,そこから登った記憶がある。地図で確認すると牧ノ戸峠から九重連山に入る登山ルートがある。一人で行き,そのバス停に降りたのも私一人であった記憶がある。久住山(1786.5m)に登ったのか中岳(1791m)に登ったのかの記憶はあいまいであるが,中岳直下の避難小屋に泊まったのは憶えている。その当時も九州の山々の頂上付近には避難小屋が整備されていて,登山しやすい環境があった。どの避難小屋も無人の小屋なので,シュラフや食料は持参しないといけないが,本州の山小屋のようにギュウギュウで寝ざるを得ないことはなく,快適であった。

山小屋で一夜を過ごし,朝起きて外を見渡したとき,一面の霜に覆われていたことを思い出す。登ったのは大学3年の晩秋であったのであろう。山小屋から長い下りを竹田市の方に向かって下っていった。

登山に関して,もうひとつ記憶違いをしていることがあった。山に関する本をいろいろ読んだのだが,なかでも一番おもしろかったのは高田直樹さんの「なんで山登るねん」(山と溪谷社)である。痛快な山登りエッセイで3巻本を楽しく読んだ。それで私はこの本を読んだから自分が山登りに興味を持ったと思い込んでいたのだが,今調べてみると,この本が出版された年は私が26才くらいな年である。だから私が山登りを始める前にこの本を読んだのではないことがわかった。

遠い昔はなつかしいが,あいまいな記憶も多い。

(2019年8月6日 火曜日 雨)

おかっぱの少女

黒田三郎の詩につぎのようなものがある。

   賭 け

  (前段 略す)

ああ
そのとき
この世がしんとしずかになったのだった
その白いビルディングの二階で
僕は見たのである
馬鹿さ加減が
丁度僕と同じ位で
貧乏でお天気やで
強情で
胸のボタンにはヤコブセンのバラ
ふたつの眼には不信心な悲しみ
ブドウの種を吐き出すように
毒舌を吐き散らす
唇の両側に深いえくぼ
僕は見たのである
ひとりの少女を

  (後段 略す)

          黒田三郎詩集 (現代詩文庫) 「ひとりの女に」より

私には詩を鑑賞するほどの力はないが,茨木のり子著「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書)の中に載っている黒田三郎の詩を読んで,生まれて初めて詩集を購入した。特に

  ふたつの眼には不信心な悲しみ

のフレーズが気に入った。私が妻と出会ったのは,通学バスの中である。そのときのおかっぱのかわいいい少女と上記の詩の中の少女が私の頭の中でオーバーラップした思いがある。

遠い昔の話であるが,なつかしい思い出である。

(2019年8月5日 月曜日 晴れ)

生存バイアス

入院する前は地元の図書館で一週間ごとに又吉直樹の新聞小説を読んでいた。今年のはじめに入院したときもその小説を読んでいたかったので,妻に毎朝,新聞を買ってきてもらい,新聞小説の部分だけ切り抜いて保存していた。いま読み返してみると,入院時の様子と新聞小説の内容がオーバーラップして,不思議な気持ちになる。

入院して1週間目くらいのとき,小説で早稲田大学の教授が女子大学院生に対しおこなったセクハラを題材にした文章が出てきた。それで暇に任せその事件のことをネットサーフィンして,生存バイアスという用語を知った。

生存バイアスという用語は学校における行きすぎたクラブ活動の指導を説明するときなどによく出てくる用語らしい。指導者が生徒や学生に過多な練習を強(し)いり,アクシデントが起きたとき,指導者はよく,「自分も現役のとき苦しい練習を経て,栄光を勝ち取った。だから,この練習方法は私の実体験に基づいているものであって,効果があるものと確信している」と言い訳する。しかし,この主張の中には,苦しい練習によって挫折した者がカウントされていない。うまくいった者のみをカウントしている。これを生存バイアスというようだ。

私は教員をしている間,不勉強にもこの用語に接する機会がなかった。

私は学生に卒業研究の指導をしているときに,学校で定められた卒業研究の時間を過ぎ,帰宅しようとする学生につぎのように言ったものである。「卒業研究は時間をかけなければ,いいものはできない。放課後も残って卒研したらどうだ。」

いま考えると,教師から与えられた分からないテーマ(それはたいてい面白くないテーマでもある)を前にして,学生は一刻も早く卒研という作業から逃れたいと思っていたであろう。私が本当にすべきことは,そのような苦情を述べることではなく,面白いテーマにして学生の前に提示することであった。

過去のいろいろな不出来の事柄が頭をめぐる。

(2019年8月4日 日曜日 晴れ)

うつ病九段

最近は藤井聡太七段の活躍もあって,将棋を鑑賞する機会が増えた。先崎学九段の「うつ病九段」という書籍を手にとるようになったのも,そのような流れからかもしれない。

うつ病は現代ではたいへんポピュラーな病気である。うつ病で苦しんでいる人の手記をブログなどでよく見る機会がある。私自身はいくつかの大病をしたが,幸運にもうつ病になったことはない。だからうつ病について一家言あるわけではない。

しかし自分自身の体験を振り返って,1つのことがこころに浮かび上がった。

私は若いころ,数年大学院で研究に明け暮れ,その後数年間民間企業で製品開発に明け暮れした。この十年余りの期間は,私の人生で最も忙しい時期であったが,自分の力を存分に発揮したいという気持ちが強かったから,朝から夜遅くまで研究や仕事に没頭しても,つらいという気持ちはこれっぽっちも起きなかった。

ただ,大学院時代と民間企業時代で異なっていたのは,それまで頭痛を体験したことがなかったのに,民間企業に入ると毎週末頭痛がすることだった。そのため休日は寝て過ごすことが多かった。不思議なことに月曜日になると,頭痛はきれいさっぱりなくなっていた。

頭痛についてはまあいわゆる週末頭痛のたぐいであろうから,と特に気に留めることもなかった。ところが数年間の民間企業での勤務ののち,ある機会があって教育機関に勤めることになった。そうすると,何の対策もしていないのに頭痛がなくなったのである。その民間企業は働く環境としては,たいへん良いように思っていたから,頭痛の変わり具合については,ずっとどうしたのだろうと思っていた。

昨今働く現場で長時間勤務ののち,精神的やまいを患い,悪くすれば自殺に行きついてしまったというニュースを見かける。これらのニュースと自分の体験を照らし合わせると,傍目にはいい環境であってでも,またある場合には精神的やまいが発症しなくても,別の場合には精神的やまいは発症するということでないかと考えるようになった。

私はその民間企業の作業環境になんら不満はなく,その企業の従業員の扱いにもなんら不満はなかったが,ただそのまま勤めていて精神的やまいは発症しない,と言い切る自信はない。

そして,これは「うつ病九段」の受け売りであるが,精神的やまいは発症して体が少々不調になったくらいでは本人は病院に行く必要性を感じなく,またいったん発症すれば,その人の気持ちの持ちようで治るというたぐいのものではなく,きちんと医師の治療を受けなければ治らないということであるようだ。

(2019年8月3日 土曜日 晴れ)

話を聞く力

今年の初めに3週間入院し,2週間一時退院して,その後再び3週間入院することがあった。入院の初期は自分のことで精いっぱいな状態であったが,だんだん日が経つにつれ,周りの状況をそれなりに見れるようになってきた。

私の入院時の病棟は私も含め,完治する見通しが少ない病気を抱えている人が多かった。そのため,4人の大部屋であったにもかかわらず,患者同士がそれぞれの病気について話題にするようなことは少なかった。皆,静かにベットで過ごし,会話は付き添いの人や担当医,看護師に限られていた。

私はそれまでに何回か,入院した経験を持っている。いままでの入院では退院するとその病気がほぼ完治するたぐいの病気であったから,患者同士で病気や治療に関する情報交換をしたり,世間話をした。その経験から,入院すると患者同士の会話が弾むものと思っていたが,今度ばかりは違っていた。私自身,同室の人に自分の病気の内容をあまり話したくないし,同室の人の病気の内容も医師や看護師との会話から聞くともなく聞いていると,大変重そうでとても聞けない。そのようで,病室は大変静かに時間が過ぎていった。

しかしながらときどき,熱心な会話が始まるときがある。

それは患者と看護師の間でのことである。状態が苦しかったりしたときや排尿などがうまくいかなかったときに看護師さんのやさしい言葉がひとつのきっかけになって,患者の半生が延々と語られる。看護師は忙しいであろうに,「ふんふん」,「そうなの」と小1時間くらい,熱心に聞いている。このような光景は今までの入院体験ではあまりなかった。まさに堰を切ったというたとえのごとく,しゃべり始めるのである。

人は窮地におちいったとき,誰かに自分の内情をしゃべらずにはいられないのかもしれない。また,看護師さんが億劫がらず,熱心に聞いている態度にはほどほど感心させられる。

私は長い間,教師をしていたが,生徒や学生から堰を切ったような内情の告白をしてもらった経験がない。それはもちろん,私にそれをさせることができる力がなかったからであるが,その力が如何に大切であるかは,今となってしみじみと感じている。

(2019年8月2日 金曜日 晴れ)