たからだの里

たからだの里は財田(さいた)町にある道の駅である。私はこのブログを3ヶ月前から始めたが,エッセイらしき文章を書き始めたのは2年前にさかのぼる。仕事の文章とは違う文章を書きたいと思い始めていた。たからだの里の文章はその最初のものである。なぜ,たからだの里から始めたかと問われれば,それは偶然としか答えようがないものであるが,あるいは,私のなき教え子が導いてくれたのかもしれない。心やさしい彼の生家はこの近くにある。

1時,たからだの里駐車場に到着する。トイレを済ましたのち,散策に出かける。戸川ダムの周辺道路沿いに進む。戸川ダムの水系は財田川の上流に位置し,徳島県池田に通ずる阿波別街道沿いの谷の水である。少し進むと車道から谷に降りる道がある。谷におり,石畳を川沿いに遡上すると鮎返りの滝に行き着く。2メートルほどの水清涼なる滝である。水流はそれほど多くないが,形がいかにも滝らしい。周りの生い茂った木々と相まって,落ち着いた雰囲気を醸し出している。

元の道路に戻り先に進むと,特別養護老人ホームがある。老人ホームの敷地の片隅に石碑が立っている。善通寺の尽誠学園発祥の地の石碑のようである。学園の創設事情が記されており,興味深い。

道をさらに進むと,車道の下をくぐるセメント道になる。うっそうとした木々のあいだを登っていくと池にでる。池ノ尾池である。ほとりに池を改修したときの石碑がある。世話人の名前の役割名に湯頭の文字があって,妻とこれはどのような意味なのか詮索する。家に戻って調べてみるも意味不明である。

池の近くに果樹園が開けている。さまざまな果樹が植えられており,名の分かりそうなのは一部でしかない。よく整備されており,ずいぶんお金がかかったのではと妻と語る。その横にミカン畑があり,ミカンがたわわになっている。こちらのほうはふつう程度の整備である。帰りにミカンを積んだ軽トラックが私たちの前に止まり,中から気持ちのよい老婦人がでてきた。私たちにミカンをくれるという。その婦人は先ほどのミカン園の栽培者らしく,ご主人とやっこらさ,ミカンをつくっているのだという。ミカンの礼をいい,別れたがほんわかとする出会いであった。

ミカン園から塔重山公園への矢印があり,それにしたがって進むと道端が竹林になっている。よく手入れされていて,春先のたけのこの季節にはさぞりっぱなものが出るだろうと想像される。

塔重山公園は小高い丘の頂きにあり,周囲の山々が見渡せる。金刀比羅の後ろの大麻山,善通寺の筆ノ山,我拝師山,詫間の紫雲出山,仁尾の七宝山など姿に見覚えのある山が目に入る。それ以上に知らない名前の山々がみごとに青々としてすばらしい。伊吹島も遠くに見える。

案内板に描かれた塔重山公園からの下りは草が茂り,通ることを断念する。車道を歩いて下る。膝はがくがくすることもなく,快調である。途中白猫にあう。森の中なのでどのように生きているのだろうかと案じるが,元気そうなのでそういう心配はいらぬものであろう。道端のセメントで保護された崖の上に蜜蜂の箱が数個置いてある。その箱の巣から絞り出されたものなのか,たからだの里の地産販売所で蜂蜜の瓶詰めが売っている。

4時,たからだの里に戻り,環の湯に入る。ぬめぬめした湯で,肌にやさしく感ずる。

たからだの里→戸川ダム→鮎返しの滝→池ノ尾池→塔重山公園→環の湯

(2016年11月3日 木曜日 文化の日 晴れ風弱し,2019年1月22日地図再作成)

志々島

志々島(ししじま)は詫間町沖にある小さな島である。かつて,妻がよくかよっており,島の数少ない住民との楽しいやりとりをよく話してくれた。私は詫間町で勤めていたにもかかわらず,志々島に行ったことがなかった。2年前,妻が誘ってくれて,その島を訪れた。下記文章はそのときの様子である。

本日は妻の誘いを受けて,妻同伴の志々島巡りである。朝8時,詫間町宮ノ下船乗り場に着く。コンビニエンスストア―で用を済ませ,粟島汽船の渡航船に乗る。釣り人や老婦人がともに乗船する。小型であるが,きれいな船である。妻が前に乗ったときにはもう少し古びた船であったという。詫間町を海側から見るのは久しぶりである。陸から見る景色と異なっていて,おもしろい。こんなに工場があったのかと驚く。

9時すこし前に志々島に到着する。いい天気である。大楠への矢印案内板に沿って進むと志々島の様子を写した写真がきれいに展示されている。それらを眺めながら前へ進む。志々島の様子を絵にし,はがき大の大きさにしたものが展示している。絵に風味があって,心温まる。

家々のあいだの狭い通路を進むと杖が置いている。妻がぜひ借りていこうというので,私も1本借りることにした。軒先に杖の置いている家は島唯一の商店,上田商店であることを帰宅してから知ったが,そのときは締まっているように見えて,まさか商店とは思わなかった。

先に進むと急な階段が続く。途中,人が住んでいないらしい家が多く目につく。お寺らしきものもあり,それはたぶん利益院であろうと後で想像するのだが,荒れ果てている。

竹がうっそうと茂る間を抜けると太平洋戦争の戦没者の墓がかたまって並んでいる。小さな島なのに多くの犠牲者が出ている。道の端に墓地がいくつか立っている。どれも墓石の表面が風化し,判別できない。

さらに進むと道の両側がきれいに草刈りされている。志々島の自然を守る人々に頭が下がる思いである。セメント道を進むと分岐して右に下る道がある。大楠への矢印案内板があり,それにしたがって下る。湿気があり,すべることに注意しながら進む。やぶ蚊が多く,それをさけるため,ウィンドブレーカーのフードを頭から被り,耳元,首筋の蚊対策とする。名前の分からぬ草木が道端に植えられている。今は晩秋だから,草木も青々さを失っているが,花が咲き誇れる季節では,さぞ見ものであろうと想像する。

大楠はどっかりと枝を広げ,やさしく待ち受けてくれた。鳥居があり,小さな祠が祭っている。

大楠を後に,土の歩道を進むと,展望台に出る。楠の倉展望台である。近くに高見島,その向こうに広島,本島が見える。また,瀬戸大橋,丸亀の造船所のクレーンが見える。ここから見る飯野山は形がよい。

展望台からセメント道を戻り,大楠への分岐点まで来ると,2人のご婦人に出会う。いまから大楠を見に行くのだという。蚊にご注意くださいといって別れる。

道を先に進むと志々島の頂上への道がある。妻が前に来たときは草ぼうぼうでとてもじゃないがいけなかったそうである。今は草がきれいに刈られている。妻と頂上を目指すことにする。途中,木のない広場に出,妻がその場を頂上と見間違う。さらに進むと道は相変わらずきれいに草刈りされており,快適である。蚊も少なくなる。横尾中継水槽と看板のあるコンクリート構造物に出会う。これはどのような働きをするものか,妻と語り合う。

中継水槽を少し進むと頂上(横尾の辻)に辿り着く。360度展望の利く素晴らしい場所である。楠の倉展望台から見えた眺望のほか,荘内半島や粟島,佐柳島の展望も手にすることができる。草木はきれいに刈られていて,気持ちいい。

頂上から中継水槽を経て,横尾方面に下る。途中,同様の中継所があり,これは水道の水をボンプアップしているのではないかと妻に話す。横尾集落は無人ですべての家屋が朽ち果てている。

海岸に降り,海岸沿いに船着き場方面に向かう。家,船,釣り道具が放置されている。途中,八幡宮がある。大きな社であるが,手入れしている様子がない。そこを通り過ぎるとヤギの姿が見える。妻より,あれは我が家に卵を届けてくれる山下さんがかつて飼育していたものだと教えてくれる。ヤギの世話をしている老人としばし雑談する。

その先に十握(とつか)神社がある。安産の神様である由。急な階段があり,階段には雑草が茂っているが,娘の安産と孫の安全を願い,妻とお祈りする。

11時に船着き場に着く。2人のご婦人と再会し,しばし談義する。一人は丸亀の人,もう一人は名古屋の人らしい。

帰宅するときは少し曇って,黒い雲も見えだした。

宮ノ下→志々島港→上田商店→利益院→大楠への入り口→大楠→楠の倉展望台→横尾への入り口→広場→横尾中継水槽→横尾の辻(志々島の頂上)→横尾中継水槽→横尾集落跡→海岸→八幡宮→山頭神社→十握神社→船乗り場→宮ノ下

(2016年11月20日 日曜日 晴れのち曇り,2019年1月20日地図作成)


天霧山


天霧山(あまぎりやま)は美しい山であるがゆえに,痛々しい。国道から天霧山を見ると,深くえぐられた採石場の跡が頂上ちかくまで無残な姿をさらしている。この採石場跡がなかったならば,どんなに美しい山かと思うのである。

妻に車で送ってもらい,多度津町白方に出向く。今日は白方から尾根伝いに天霧山に登ろうと思う。地図にある登山口は草に覆われて前に進めなくなっている。10メートルほど横の別の登り口を探し,登り始める。

登り始めは道の両側が笹や雑草で覆われている。勾配も急である。趣のない道をしばらく進むと樹林帯に入り,ホッとする。山道は落ち葉で覆われ,歩きにくい。急坂を登り,最初の送電線鉄塔まで来ると,すこし山らしくなってくる。

猪に警戒しながら,登り進める。途中,2番目の鉄塔に行く道と尾根筋の道に分かれるところがある。鉄塔に行く道の方が整っているため,この分岐は見過ごしやすい。赤いテーピングの印があったため,安心して尾根筋を進む。

小さなピークを過ぎると道は分かりづらくなってくるが,登る前,藪漕ぎを覚悟していたため,それほどでないことに安心する。

360メートルのピークに到達する前に,見晴らしの良い岩場がある。今日は曇り空であるが,空気は澄んでおり,青の山,飯野山,城山,大高見峰,大麻山,我拝師山がきれいに見える。

天霧山山頂に行く途中,ひとりの登山者に出会った。登山ルート等に関する雑談をし,分かれる。天霧城跡を散策する。石垣の崩れた跡しか残っていないが,趣のある場所である。城跡のすぐ横は採石場跡になっており,急崖である。注意しながら,登り降りする。

天霧山山頂からの下りは急坂である。前にも,この坂は登り降りしたことがあるが,こんなに急だったかと思い直す。

奥白方からの遍路みちと合流し,弥谷(いやだに)寺の方に進む。

10:00 登山口 → 10:45 鉄塔 → 10:55 山道分岐1 → 山道分岐2 → 11:40 小ピーク → 12:10 360mピーク → 天霧城跡 → 13:00 鉄塔 → 13:10 306mピーク → 13:20 遍路みち分岐 → 13:35 弥谷寺

(2019年1月6日 日曜日 曇り)



大麻山


朝早く,妻に灸まんうどんの駐車場まで送ってもらい,大麻山(おおさやま)に登る。

ちかくに大麻神社があるので,寄ってみることにする。思ったより,りっぱな神社である。正月のこしらえをし,境内は掃き清められている。ふと横をみると,うり坊がトコトコ歩いているではないか。急いで写真機を出し,撮影する。こんな里まで出てくるとは,驚きである。

大麻神社を後にし,防火帯沿いの山道を登るつもりで,登山口を探すも見つからず,うろうろする。どうしたらよいものかと思案しつつ,ためしに道脇の金毘羅宮が管理している広場に入ると,登山道らしきものが見える。ただし,道には倒木が通行を妨げるように横倒しになっている。侵入禁止の印かとも思えたが,進む。枯れ草をかき分けつつ,登ると広い登山道になった。地図で確認すると,この道は防火帯沿いの山道ではなく,その東横の奥社参道に至る道である。

しばらく行くと,広い横道と踏み跡がわずかな細い縦道との分かれに来る。この分岐は分かりずらい。道標もなく,まよいやすい。縦道を進むと道の20メートルほど横で物音がした。そちらを凝視していると大きな黒い猪が突然,山を駆け上った。そのスピードには驚くほかない。恐怖心を感じ,思わず道に落ちている枝切れを持ってしまった。

さらに進むと小横道の標識に出会った。社務所,木戸口展望園地,白峰社奥の院の三差路である。白峰社奥の院の方角に進む。その山道を登り詰めると,作業用の林道に出た。林道を進むと,参道に出る。

参道には,奥社への参詣客が思いのほか多く登っている。奥社にお参りし,奥社下の大麻山登山道に入る。ゴミが散在し,驚く。奥社の参詣者が捨てたものであろう。ペットボトルやビニール袋のほか,酒瓶らしいものも見える。金毘羅宮の境内やここ以外の登山道にはゴミひとつ落ちていなかったから,よけい奥社下のゴミが気になった。

大麻山のなだらかな登山道を龍王社の方に進む。龍王社で東京から来た男性ならびに長野から来たご夫婦に出会い,しばらく談笑する。気持ちの良い方々である。

頂上を経由し,工兵道をとおり,金毘羅宮本殿の方に下る。

8:35 大麻神社 → 登山道入口 → 登山道分岐 → 9:45 小横道 → 10:00 横道 → 奥社参道合流点 → 10:50 奥社 → 11:00 工兵道分岐 → 龍王社 → 12:30 大麻山山頂 12:40 → 13:10 工兵道入口 → 13:30 西防火帯 → 14:05 葵の滝 → 14:10 工兵道分岐 → 14:20 奥社 → 白峰社 → 金毘羅宮本殿

(2018年12月31日 月曜日 晴れ)