低残渣食

入院してから食事はずっと低残渣食であった。残渣(ざんさ)という言葉は初めて目にする言葉である。辞書で調べてみると「食べ物のかす」という意味らしい。

病院での低残渣食は,お粥と食物繊維なしのおかずからなる。

お味噌汁はトウフの具のみが入っている。ジャガイモ,里イモ,カボチャはすりつぶしている。トウフや麩(ふ)がよくメニューに入っている。肉や魚は形のあるものが出る。野菜はつまみのパセリ以外は全く出ない。デザートとしては,リンゴや桃のすりつぶしたものが出た。ちょうどクリスマスの日にはお祝いとしてカボチャのプリンが出された。

低残渣食をずっと食べていると,便が固まらず軟便の状態で出てくる。便秘にならずにすむのはいいのだが,便意をもよおしてからすぐにトイレに駆け込まないとちびることがあるので注意を要する。

妻が病院の低残渣食を見て,家での献立の参考になるとしきりにうなずいている。

いよいよ私も病人食のお世話になる時期にはいったのだなあとつくづく思う。

(2019年12月28日 土曜日 晴れ)

病院の長い夜

肺炎で入院して初日は,その前の日の吐き気と咳による寝不足の反動で,ぐっすり眠っていられたが,数日経つと昼間もベッドの中にいるため,夜なかなか眠れない。

夜10時に抗生剤の点滴があり,その後眠りにつく。気が遠くなり,尿意で眠りから覚めトイレに行った帰り,ナースステーションの時計を見るとまだ12時である。ぐっすり眠った感覚があるのに2時間しか経っていない。再び眠りに入る。再び尿意を感じトイレに行くが,時刻はまだ夜中の2時である。

それからなかなか寝つかれない。

東畑開人氏の「居るのはつらいよ」を読んだせいか,ふと統合失調症の発症メカニズムについての空想が頭をよぎる。統合失調症は多くの場合青年期に発症し,その傷は生涯残る。

シロクマ(意識)とクジラ(無意識)のたとえでいうと,シロクマとクジラがともに赤ん坊のころは,海岸で仲良く遊んでいた。そのうちだんだん成長していってシロクマは陸上をウロウロするようになり,クジラは深い海まで潜るようになった。そうこうしているうちに気温は低下していき,海には氷が張りだした。シロクマはもう,クジラのことを忘れてしまった。

多くの場合,氷はだんだん厚くなり,再びシロクマとクジラが会うことはない。しかし何らかの気象変化が起こって,氷の一部が溶け出すことがある。そうすると成長した巨大なクジラが水面に現れ,シロクマはパニックになる。シロクマはクジラが何者か分からず,右往左往する。

シロクマとクジラの争いはその後もずっと続く。シロクマには自分の力で,海面を凍らせることはできないのだ。

(2019年12月26日 木曜日 曇り時々雨)

ある友人のこと

肺炎で入院して2日目である。息の苦しさは少し和らいだ。

仙台にいたころ,研究室の後輩の一人と親しくなった。その友人は学部4年で卒業し,電機メーカーに勤めていた。そして一年ほどたって大学に戻って来た。民間企業がどうも合わなかったみたいだ。

大学で教職免許を取るのだといっていたが,私の下宿に来ていろいろ雑談していても,かつての彼とようすが違い,やけに陽気になっていた。

その後音沙汰がなくなり,しばらくの間音信不通になっていた。私が彼に連絡をとったのか,彼から連絡があったのか今では分からなくなっているが,私の帰省の折に彼の故郷に寄ることになった。

彼の母親の話では民間企業に勤めているときに統合失調症を発症したらしく,今は自宅近くの病院で治療を受けているということだった。

私が教職についているときも何度か研究室の電話で彼と長話をした。

東畑開人氏の「居るのはつらいよ」(医学書院)を読んでいて,彼のことが思い出された。

本の中に出てくるシロクマ(意識)とクジラ(無意識)の話がわかりやすく,彼もクジラが大暴れしたときは,必死でクジラをなだめていたのだろうと想像した。

彼とは長い間連絡を取っていないが,今どうしているのかと思い,なつかしみの気持ちが満ちてくる。

(2019年12月24日 火曜日 快晴)

繋がる

鼻と喉の炎症がずっと続いていて,特に寝ているときに苦しかったのが,今朝はだいぶよくなって自分でもよく眠ることできたような気がする。普通に眠れることがほんとうにありがたいことだと思った。

岸政彦の「図書室」という本には「図書室」という小説と「給水塔」という自伝的エッセイが収められている。それぞれの文章のなかのちいさなエピソードはおなじくらいの濃さのある話になっているのに,一方は実(み)のある話に聞こえ,一方の話は実のない話に感じるのはどうしてだろうと考えていた。

もちろん小説の方がよく練れた文章で,エッセイの方は片手間で書いた文章だからといってしまえば身も蓋(ふた)もない。それで寝ているとき,もうすこし丁寧に考えてみることにした。

そうして出た結論はこうである。

小説のなかのちいさなエピソードは現在に繋(つな)がっているが,エッセイのなかのちいさなエピソードは現在に繋がっていないからではないかということである。

小説に出てくる40年前のエピソードは,忘れ去られてもいいくらいのエピソードであるのに,それが重要に思えるのは主人公の現在の生き方や考え方がそのエピソードと繋がりを持っていると読者に感じさせる文章になっている。

(2019年12月18日 水曜日 曇り)

ボケる方法

岸政彦の「図書室」(新潮社)は大阪に住む50歳の中年女性が,自分が10歳くらいのときの公民館の図書室で過ごした日々を回想する小説である。

そのなかで,ボケる方法についての主人公と男子小学生の会話があって,おもしろい。すこし長くなるが引用する。会話は男子小学生の,太陽が膨張して地球が滅亡するというウンチクに関するものである。

「熱いなそれ」
「熱いやろな。めっちゃ熱いと思うわ。飲み込まれるはるか前に,もうめっちゃ暑なんのちゃうかな地球。いまより十倍くらいのやつが空に昇ってくるねん」
「今日めっちゃ寒いからちょっとおっきなってほしい」
「せやな。でも何千度にもなるで」
「わかってるやんか。ボケたんや。こないだ教えたやろ。いっかい乗るねん」
彼は真面目に,あっそうかごめん,と言って,言い直した。
「ほんまやなー,今日寒いから太陽おっきなってほしいな。って,死ぬわ!」
「死ぬまでが早い! 死ぬまでが早すぎ!」
「どうしたらええねんな」
「もっと途中で,そうそう,おっきなって温度上がって,何百度とかになって,って言ってから,死ぬわって言わんと。いきなり死んだらあかん」

大阪の小学生だからこそ成立する会話であろう。いまではテレビで毎日芸人がボケまくっているから,誰の耳にも親しみを込めて聞こえるが,ボケる会話はそうそうできるものではない。

私も生涯,一度もボケたことがない。

(2019年12月15日 日曜日 晴れ)

老病死

十日町に行ったとき,私の不注意でもらった風邪が長引いて,なかなか治らない。昼間はあまり困らないのだが,寝ていると粘性のある鼻水が気管支の方に流れ込むようで,セキをしだすと止まらない。すこし気が遠くなって眠りに入っても,そのセキで目覚め,結局寝不足になるのである。今日はよくなるだろうと期待していたが,まだ用心した方が良いと思い,せっかくの孫の生活発表会には行けなかった。孫が張り切っていたから,残念である。

今日の新聞に山折哲雄さんが「老病死」について書いている記事を見つけた。「心臓死」のような時間的な点の死でなく,時間幅のあるプロセス死を考えようという記事であった。死をプロセス死ととらえると,どのような話の展開になるのかは今日の紙面からは読み取れなかったが,来週の記事を楽しみにしよう。

死について,私のなかで最も感動的なものとして残っているのは妻の父親の死である。義父はがんの病に侵されていたが,死ぬまで私たちの家で私たちといっしょに暮らすことができた。それには妻の深い愛情があったためであろうと,今は振り返って思う。

義父はある夜,就寝中にひっそり息を引き取ったのであるが,その瞬間はだれも気付かなかったように思う。妻が気づいて,亡くなったことが分かったが,妻が「まだ,夜中だから,皆でお父さんの横で寝てあげよう」といってくれ,子供も含めた私たち3名か4名かは義父のそばに布団を敷き直して,寝ていたのである。

空が薄あかいろになり,私たちは静かに起き出した。そのときは互いに声を交わすこともなかったが,皆が義父の死を静かに自分の心に受け止め,悲しむこともなかった。

義父も穏やかな死を迎えたと思うが,私たちも心を乱すことなく,それを受け止めることができた。

私の実父もがんに侵されて亡くなったが,そのときは,私は自分で悲しみを表現しようと夢中であったのではないかと思う。だから今考えると,もっと穏やかに死を受け止めてあげ,送り出すべきであったのではなかったかと思うのである。

(2019年12月14日 土曜日 晴れ)

列車の車窓から


昨日,今日と1泊2日で妻の生まれ故郷新潟県十日町市に行ってきた。妻の叔父さんが体調不良なため,施設に入所しているのをお見舞いするためである。私の体調もよく,また我が家の愛猫の世話については長女にお願いできる目処がついた。それでこの際,行ってすぐ帰ってもよしと思い,行ったのである。

叔父さんの状態は思いのほかよく,妻を見るなりマスクをしているにも関わらず,「〇〇ちゃん(妻の名前),ようきてくれたねえ」と言ってくれた。言葉も鮮明で,顔の表情もにこやかであった。妻と叔父さんの間で取り留めもないことを長く話して,話の終わりが見えないくらいであった。来たかいがあったと思った。

十日町では親類のおおくの人とも会って,楽しいときを過ごしたが,その話についてはちょっと置いといて,今日は列車の中から見た車窓風景について話してみたい。

というのも,天気予報では昨日は関東地方に初雪がふりそうだといっていたのに反し,全くの晴天であったのだ。ぼんやりと新幹線の席から外を見ていると,青空が一面に広がっている。特に目的もなく山々を眺めると名古屋の手前,岐阜辺りで遠くの山並みのさらにその向こうに白い山塊がくっきりと見える。あの山はなんの山だろうと,妻といろいろ意見を言い合う。御嶽山が見えたのではないかと結論づける。

そうすると,その日は富士山もよく見えるのではないかと予想でき,事実みごとな富士山を拝むことができた。

高崎あたりでは遠く浅間山らしい丸い峰をみることもできた。ところが山を越え,越後に入ると天気はひどい曇りで山並みは全く見えなくなってしまった。

翌日,すなわち今日であるが,天候は全く逆になってしまった。越後では朝,霧が低く立ち込めていたが,その上は晴天である。ほくほく線の六日町あたりから見る越後の山は見事であった。八海山が白い雪の頂きをみせている。朝日に輝く田畑と雪山のバランスがすばらしい。

ところが上越トンネルを越えると今度は関東が曇り空で山はまったく見えない。静岡あたりでやっと晴れ上がり,富士山を拝むことはできたが,昨日の御嶽山はどこにあるのやら,なんにもわからない始末である。

(写真は八海山の遠望である)

(2019年12月9日 月曜日 晴れ)

おむすび山の起源


飯野山(いいのやま)や昨日訪れた爺神山(とかみやま)は香川県の山の地形を特徴づけるおむすび山である。どうしてこのようなおむすび山ができるのかを調べた。

おむすび山の下半分は花崗岩(かこうがん)でできており,上半分は安山岩(あんざんがん)でできている。花崗岩,安山岩はともにマグマが固まってできた岩である。硬度は花崗岩の方が大きいが,花崗岩は風化するとまさ土(ど)という黄土色(おうどいろ)の砂状の土に変わる。私たちは小さいころよりこの土を山土(やまつち)と呼んでいた。山に登ると山の表面がこの土で覆われていたからである。

地下のマグマがゆっくり固まって花崗岩になり,それが隆起して地表に現れた。その花崗岩の隙間に新たなマグマが噴出し,急速に固まって安山岩になった。そして,安山岩,花崗岩が雨によって浸食されると,鉛筆の先のような山の形が残ったのである。鉛筆の芯が安山岩である。

飯野山に登ると最初黄土色の脆い山土を目にするが,中腹あたりで黒っぽいギザギザの石に変わる。爺神山も同じような構造である。

爺神山に行ってたいへん残念なのは,東半分が中腹から頂上まできれいさっぱり削り取られていて,無残な姿を残していることである。このような状況は天霧山でもみられた。採石業者が日本の高度成長期にセメントの砂利として山を削ったのであろう。削った部分はすべて安山岩の部分である。

異様な山の姿を見て,今は誰もが憤慨するに違いないと思うのだけれど,その時には誰もそのことには関心を持たなかったのかもしれない。

(写真は爺神山の遠景である)

(2019年12月5日 木曜日 曇り)

爺神山


昼過ぎてから急に高瀬町の爺神山(とかみやま)に行きたくなった。午前中,ワープロで般若心経の冊子を作っていて,般若心経を唱えたくなったのである。

爺神山には大師堂という小さなお堂がある。以前本山(もとやま)寺から本門(ほんもん)寺までのウォーキングのときに寄って,お気に入りになっていた。小さなお堂であるが,すごくフレンドリーに感じられる場所なのである。般若心経を心置きなく唱える場所といったらここしかないと思えるくらいよい場所である。

2時ごろ軽トラックに乗ってお堂まで行き,だれもいないのをこれ幸いにして,気持ちよく般若心経を唱えた。その後,爺神山を一周する2km弱のミニ八十八か所めぐりに行った。道のわきの88ヶ所にほとけの石像が安置されている。どれも前掛けをしていて,地蔵さんのようである。それぞれのところで3回ずつ南無阿弥陀仏を唱える。真言宗のほとけであるが,許してもらうことにする。

44番目でちょうど半分になるので,そこで再び般若心経を唱える。全部まわり終えてお堂に戻ってからもお堂の中で般若心経を唱える。今日は3回,般若心経を唱えてしまった。1時間弱のコースタイムである。

(2019年12月4日 水曜日 曇り)

満濃池一周


今日は曇ってはいるが,風が弱い日である。気温はやや低く,肌寒く感じる。体調がよくなったので久し振りにウォーキングに出かけることにした。妻も応援してくれている。

本日のルートは満濃池一周である。満濃池に隣接してゴルフ場がある。そのため,満濃池の縁ぞいに一周するルートはない。ゴルフ場を遠巻きにするルートを取らざるを得ない。

満濃池ダムの上にある駐車場に車を置き,反時計まわりに池をまわることにした。ダムのすぐ近くに神野寺という真言宗のお寺がある。まずはそのお寺にお参りに行く。小さなお寺であるが,落ち着いていて感じがよい。本堂にてしばし手を合わせる。帰り際に庭の手入れをしていたご住職さんからこんにちはと声を掛けられる。私も挨拶を返す。気持ちのいい住職さんであった。

森林公園の方には行かないつもりであったので,森林公園入口を通り過ぎ,そのまま広い道を進むと,四国のみちの標識があった。四国のみちはどこに続いているのかと思い,そちらに進むと結局は森林公園のなかに来てしまった。森林公園の遊歩道を歩いていると足がやや不自由そうなご老人に出合った。挨拶を交わし,先に進む。結局,ゴルフ場の入口付近まで来て森林公園の出口が見つかった。そこから元来た道の方に戻った。途中,大規模な鶏舎が横にある道を通ると,鶏の声が響き,鶏糞のにおいが漂う。

農道を通って白鳥神社に向かう。本殿にお参りし,さらに春日神社の方に進む。たまたま民家の横を通り過ぎると,人のよさそうなおばあちゃんと目が合った。挨拶を交わす。おばあちゃんが,「散歩はいいよね。うちのお父さんはもう散歩ができない体になったのよ。」などという話をしてくれた。

春日神社の方面は緩い上り坂である。休み休み進む。やっと春日神社に着き,昼食のおむすび1個と餡入り草餅を1個食す。もう12時半である。すこし進みが遅いようである。

春日神社から満濃池上流までの山の中の道はトラックが多く行き来する自動車道である。趣のないまま,歩だけを進める。途中,もっこく池というやや大ぶりの池があった。数人が池に竿を向けて,釣りを楽しんでいた。その横ではグランドゴルフに興じる老人の集団があった。この道沿いにはほとんど民家らしい民家はないので,どこから来たものかと思った。

満濃池上流から満濃池を周回する道は自動車の通る道と予想していたが,それに反し,人と自転車だけが通れる遊歩道であった。これには驚くとともにうれしさがこみ上げてきた。満濃池の縁を緑の森に囲まれながら,ゆっくりと歩いた。

満濃池ダム駐車場 10:00 → 神野寺 → 森林公園遊歩道 → 白鳥神社 → 春日神社 12:30 → もっこく池 → 満濃池遊歩道入口 13:30 → 満濃池遊歩道 → 神野神社 → 満濃池ダム駐車場 14:40

(2019年12月3日 火曜日 曇り)


お札

昨日は病み上がりだったのに,あまりにも気分がよかったものだから,図に乗って昼ごはん前に,妻のつくっていたさつまいもの揚げ物を2切れ食べた。それがよくなかったのであろう。昼をすこし過ぎたころに胃の内容物をもどした。いよいよ,十二指腸が閉塞しはじめたのかと暗い気持ちにはならないまま,漠然と思った。

胃の内容物をはいてしまうと気分はよくなり,夕食はおかゆと固形物のないお汁をいただいた。

夜に地域の神社担当の方が神社のお札を持ってきてくれた。神宮大麻(たいま)と地域の氏神様のお札である。

神社のお札については,今までたいして関心を向けているわけでなく,習慣ごととしてあつかっていたが,最近ウォーキングでよく神社をお参りする機会が増えたため,神社に張り出されているポスターなどを見ることが多くなった。

天照の神のお札と地域の氏神様のお札があることは知っていたが,天照の神のお札を神宮大麻と呼ぶことについては,ポスターを見るようになってからなじんだ言葉であった。

いただいたお札をさっそく神棚に飾る。

(2019年12月1日 日曜日 晴れ)