椎尾長炭道1/椎尾八幡


椎尾八幡神社から大桑池まで

椎尾長炭道は,椎尾(しいお)八幡神社から長炭(ながすみ)橋までの山里道である。車が一台通れるほどの道幅があり,すべてアスファルト舗装がなされている。生活道路と林道を兼ねたような道である。今日はすこし寒いが,晴れて気持ちのいい日であるので,ゆっくり椎尾長炭道を歩いてみることにした。

妻に自動車で椎尾八幡神社まで送ってもらう。

まずは,椎尾八幡神社にお参りする。神社の周りに森が茂り,落ち着いた雰囲気の神社である。苔むした狛犬が優しく神社を守っている。小さな神社であるが,地域の人々が大切に守っているのを感ずる。

椎尾八幡神社から山里道を進む。道を進むと,すぐに,小さな池が右手に見える。また,田畑が右手に続いている。道の左側は山である。
民家がところどころにある。どの民家も小ぶりの家であるが,家の周りや道の端がきれいに草取りしている。例外なく,きれいである。これはこの地域の優れた習慣かもしれない。途中,浦田という集落の集会所があった。質素で,落ち着いた雰囲気の集会所である。

もう少し進むと,道の両側は林になった。道の端の落ち葉の中で,小さな石の祠があった。中には,表面が判別できない長方形の石が鎮座している。その石には地蔵様が彫られているのであろうか。判らぬまま,その祠に手を合わせる。
林の中をずっと進んでいくと,急に明るくなって,視界が開けた。大きな池に出たのである。道標には,大桑池(おぐわいけ)とある。

10:00 椎尾八幡神社 → 10:30 大桑池

(2018年11月30日 金曜日 晴れ)


椎尾八幡神社前にはつぎのような案内板がある。

四国のみち(四国自然歩道)
修験道と峠のみちコース  11.8 km
山びこのみちコース    10.9 km
長柄ダムと桜のみちコース  7.5 km

ここは,椎尾八幡神社です。その名のとおり境内には,シイの木が多く,こんもりとした森を形づくっています。境内のすぐ近くには,小川が流れ,夏ともなると,木陰でせせらぎの音をききながら休けいする人の姿が見られます。ここ,椎尾八幡神社には,四国のみちが通っています。

四国のみちは,四国を歩いて一周する自然歩道です。椎尾八幡神社を中心とする四国のみち3コースをご紹介します。3コースとも一般向けのコースです。
道の分岐点には,指導標が立っています。時間に余裕をもって歩きましょう。車でおいでの方も,次の機会に是非一度,歩いてみませんか。

■ 修験道と峠のみち(椎尾八幡神社-長炭橋 11.8 km)

椎尾八幡神社から長谷を通り,金剛寺を経て,満濃町の土器川にかかる長炭橋に至る 11.8 km のコース。
金剛寺をとりまく一帯は,金剛院と呼ばれ,その昔,修験道とゆかりのあったところだそうです。途中の長谷までは,4.3 km,ゆっくり歩いて約1時間半。金剛寺までは 9.0 km,約3時間。終点の長炭橋までは 11.8 km,約4時間の道のりです。

■ 山びこのみち(椎尾八幡神社-滝宮天満宮 10.9 km)

長谷を経て,学問の神様として知られる綾南町の滝宮天満宮に至る延長 10.9 km のコース。
椎尾八幡神社から大桑池の間は,展望が良く,楽しいハイキングになるでしょう。山里の自然を十分に味わって下さい。滝宮天満宮までは,ゆっくり歩いて約3時間半の道のりです。

■ 長柄ダムと桜の道(椎尾八幡神社-枌所バス停 7.5 km)

桜の名所としても知られる長柄ダムを経て,枌所(そぎしょ)バス停に至る 7.5 km のコース。
長柄ダムは水鳥の生息地となっていて,カワガラスやオシドリなどの水鳥を見ることができます。長柄ダムまでは 5.3 km,ゆっくり歩いて約2時間。終点の枌所バス停までは 7.5 km,約3時間の道のりです。

昭和62年度 環境庁 香川県

椎尾長炭道2/境場


大桑池から種子の池まで

大桑池(おぐわいけ)は池の一端がダム状の大変大きな池である。その池のふちを進むと境場(さかいば)集落に出る。集落といっても,家は点在しており,一か所に集まっている訳ではない。道の進む方向に高さを増しており,そこに大規模な段々田がある。ひとつひとつの田の面積が大きく,また,きれいな長方形をしている。大規模な農地改良を行ったのであろう。家々もひとつひとつが大変立派な建て前をしている。

境場集落を過ぎると,峠のようになっており,そこからは下りである。峠で工事関係の人が一人立っている。こんにちはと挨拶を交わす。その人がいうには,この下の橋で舗装工事をしているので,注意して行ってくださいとのこと。分かりましたと返事し,分かれる。

下り道の左側は沢で,左右両側とも木が密集して茂っている。途中,一軒家があり,家の前に小さな畑がある。畑には野菜が植えられているから,今現在も住んでいるのは間違いない。山の中の一軒家,というテレビ番組を思い出す。

だいぶ下っても工事らしいものは見えない。本当に工事しているのかと怪しんでいると,前から小型トラックが来て,乗ってくださいという。どういうことか分からないまま,助手席に飛び乗ると,工事現場まで連れて行ってくれた。どうも私が余りにもゆっくり歩いているものだから,しびれを切らして迎えに来てくれたようである。私が来るまでは,工事を中断していたらしく,そのような雰囲気を感じたので,すみません,すみませんといいながら,工事現場の中を通過する。工事の方々も,口々にご迷惑をおかけしますといってくれる。すこし,気まずかったので,足早やに工事現場から離れる。

工事現場の橋はちょうど長谷の出会いのところに架かる橋であった。長谷からは,2車線の道路の脇を再び登る。車両がひっきりなしに横を通過するので,やや興ざめする。途中,西行法師の石像があったので寄ってみる。
まんのう町の標識があるところからもう少し登ると,池に出た。

10:30 大桑池 → 境場集落 → 11:00 長谷 → 西行法師の石像 → 11:30 綾川町・まんのう町の町界 → 11:45 種子の池


大桑池のほとりにはつぎのような境場の案内板があります。

境場(さかいば)

  長谷から兜(かぶと),そして境場へと続くこの道は,古くから剣山詣りや,大山(だいせん)詣り,また阿波からの商人の通った道であった。
  坂を登りつめると兜,そして境場の盆地が広がる。青空や山々を静かに写す水面は,大桑(おぐわ)池。俗におんぐゎん池と呼ばれるこの池には,おもしろい話が残っている。

  昔,兜に「かぶと衛門(えもん)」という男が住んでいた。かぶと衛門は非常な大力であって,大きなとんが(唐鍬)三さらいで池を掘った。だから大鍬池といっていたのが大桑池になったというのである。池の下方には,百畝地(ひゃくぜまち)という田がある。これは持ち主が田の数を数えると一枚足りず,探したところタカラバチ(竹の皮の笠)の下に一枚あったなどという話が残っている程,小さい田ばかりのところであったことからこう呼ばれている。これもかぶと衛門がこしらえたのだと伝えられている。

  かぶと衛門についてはこの他にも,三斗三升のおはぎを一度に食べてしまったとか,千石船に積んだ米を帆柱にくくって持って帰ったとか,おならをしたら陶(すえ)の十瓶(とかめ)山まで響いた等という話が沢山残っている。
  境場というところ,どこから来ても山を登るか越してくる道である。
  そんな山道が平坦になり,人家があれば皆一服したであろう。かぶと衛門の話などはそんな時のかっこうな話題になったであろう。

昭和63年3月 香川県

椎尾長炭道3/金剛院


種子の池から長炭橋まで

種子の池で昼食をとり,15分後,出発する。ここから,再び,林道に入る。車も通らず,静かな道である。しばらく行くと,金剛院集落が見えた。案内板があり,ここから金剛寺が見えると書いてあるが,どの建物か分からない。どれも民家のように見える。

林道を外れ,金剛院集落へ向かう小道に入る。地図で確認しながら,金剛寺を目指す。途中,目の不自由な若者と出会う。散歩しているらしく,白杖を突いている。すれ違うとき,こんにちはと挨拶すると,気持ちのいい声でこんにちはと挨拶を返してくれた。
金剛寺は山間の平地の中ほどにあり,正面からは寺院らしいが,中の本堂は古びた民家とあまり変わりない。誰もいない様子である。本堂にお参りし,金剛寺を出る。

金剛院集落をゆっくり下っていく。集落の出口あたりに大柞池という大きな池があり,そのほとりに3体の地蔵が並んで鎮座している。お地蔵さんにお参りし,さらに下る。
大きな道路に出る前に,立派な石の常夜灯があった。電線がその常夜灯に引き込まれているから,まだ現役なのであろう。石台には明治の時代に作ったとの文言が刻まれている。

2車線の道路に出,長炭橋を目指す。長炭橋は工事中で,自動車は通れないようになっているが,歩行者は通れる。妻に迎えに来てもらう手筈になっているが,さて,橋のどちら側で待ち合わせたらよいものか,しばらく思案する。

12:00 種子の池 → 12:30 金剛院集落入口 → 金剛寺 → 13:20 大柞池 → 常夜灯 → 14:00 長炭橋


金剛院集落が見渡せる道の脇には,つぎのような案内板があります。

金剛院(こんごういん)部落と修験道(しゅげんどう)

ここから金剛寺を眺めることができます。

金剛寺を中心とする金剛院部落の地名はすべて仏教に因(ちな)んだもので,左の地図のように部落を取りまく峰や峠もすべて仏縁地名であるといえます。
金剛院部落の仏縁地名について考える一つの鍵は,金剛寺の裏山の金華山(きんかさん)が経塚群(きょうずかぐん)であるということです。

経塚は修験道との関係が深く,このことから金剛院の地域も,平安末期から室町時代にかけて,金剛寺を中心とした修験道の霊域(れいいき)であったと思われます。各地から,阿弥陀越(あみだごえ)を通り,法師越(ほうしごえ)を通って部落にはいった修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ,金剛寺や妙見社(みょうけんしゃ)(現在の金山(かなやま)神社)にこもって,看経(かんきょう)や写経(しゃきょう)に努め,埋経(まいきょう)を終わって後から訪れる修験者にことずけを残し,次の霊域を目指して旅立って行ったのでしょう。

昭和63年3月 香川県

また,金剛寺の前には,つぎのような案内板があります。

石仏(せきぶつ)山金剛(こんごう)寺

弘法大師が高野山開基以前,全国各地に清浄な聖域を求めて大寺院を建立しようとしていたところ,この地にその建立を試みたという話が伝えられ,金剛院(こんごういん)という部落名や部落内の仏縁(ぶつえん)地名もそれによって生まれたといわれています。

金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で,金剛院金華山(きんかさん)惣(そう)寺と称していたといわれ,楼門前の石造十三重塔は,現在は上の三層が欠けていますが,鎌倉時代中期に建立されたものです。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれ,各所に経塚(きょうずか)が営まれており,山全体が経塚だったと思われます。昭和27年の調査で発掘された陶製の経筒(きょうづつ)などが,当地に保存されています。部落の仏縁地名や経塚の状態から見て,当寺は修験道(しゅげんどう)に関係の深い,聖地であったと思われます。

昭和63年3月 香川県

牧野植物園


妻と高知までドライブに行く。行き先は牧野植物園である。牧野植物園の名は小さい頃より知っていたから,小学校の修学旅行で行ったのかもしれないが,あまり記憶に残っていない。したがって,今回の訪問が初めての訪問のようなものである。

高速道路のいくつものトンネルを潜り抜け,高知までやって来た。地図で見ると,牧野植物園は五台山の頂上付近にあるようだ。高知市内から五台山の頂上へ,車1台通れる幅の道を登っていく。これじゃあ対向車が来たら避ける所がないよねえ,と妻と話しながら登った。後で知ったことだが,この道は一方通行で,降りる道は別にあるのであった。

駐車場で車を停め,牧野植物園正門に進む。正門前の歩道の両側がすでに植物園になっているようで,普段見る雑草,雑木にひとつひとつ名札がついている。あまりにも多い名札であるので,ひとつひとつ見ることができない。すこし圧倒された気分で,漠然と見ながらチケット売り場に進む。

入ると,牧野博士の業績の展示場がある。また,さまざまな植物の模型が置いてある。蜂が花の蜜を吸うとき,どのような仕組みで植物が蜂の体に花粉をつけるか,その仕組みを説明する模型が置いてあって,妻がこれは面白いと,にぎやかに言っている。

通路を進むと,通路の横の石垣沿いに,日陰で,湿潤を好むいろいろな植物が植えられている。通路を過ぎ,薬草園の方に降りる。桜がきれいに花を咲かせている。こんな時期にも咲くのだなあと思いつつ,名札を見るとジュウガツザクラとある。なるほど,秋に咲く桜である。

いろいろ名札と草木を見比べながら進むと,タチバナという植物が目についた。たちばなという姓の友人がおり,たちばなという植物がありそうだなあと前々から思ってはいたが,かんきつ類の植物であったとは意外であった。

道の片隅に紫色の花が咲いていた。名札を見ると,ハナトリカブトとある。あの猛毒の植物がこれなのかと思いながら,可憐な花を眺めていた。

道の脇にランの展示場があった。入るとどれも大変地味なランが展示されている。野生のランとはまさにこのようなものかと感心した。中でも一番立派なランがあり,そのランには泰山という名がついていた。泰の一字を名の一部に持つ我が娘の地味さとこのランの地味さがぴったりだと,妻と余計な冗談を言いながら,散策した。

温室に入ると,沙羅双樹の木があった。沙羅双樹に思いを寄せつつ,暖かい温室を一巡した。

牧野博士展示場 → 日陰植物 → 薬草園 → ラン展示場 → 温室

(2018年11月3日 土曜日 晴れ)



天神峡


妻と井原(いばら)市の天神峡に行く。駐車場から天神社に行き,まずは用を済ます。天神社は高くて太い杉に囲まれている。天神様にお参りし,もみじ橋の方に行く。観光客が十名ほどあちこちを散策している。もみじ橋周辺は楓の木を中心とした紅葉で,色あでやかである。
もみじ橋を渡り,砂防公園の方に行く。砂防公園は小田川の支流中村川の砂防工事に付随して作ったのであろう。砂防公園の小田川の河岸に降り,妻と昼食をとる。岸べりに座って川面を眺めると,澄み切った水の中に小さな魚たちが泳いでいるのが見えた。川面に時折,落葉した葉が流れている他は何もない澄み切った水である。

食事を終え,小田川の上流に向かい,散策する。年配の人々がピクニックに来ているのか,数人で食事をしているところに出会った。一人が自分で作った大根であろうか,皆に配っていた。楽しそうな集まりである。

はずれに歌碑があった。

はやたつの かけひの水の なかれては にこりなき世の あふ瀬也けり
長和五年 善滋朝臣為改 詠

長和五年は平安時代である。

「早辰の 筧の水の 流れては 濁りなき世の 逢瀬なりけり」
早朝,庭の筧に水が清々しく流れています。それは清らかな世の中でのあなたと私の出会いのようです。という意味か。

小田川沿いに進むと,土砂崩れのあとが見える。川岸の木々がなぎ倒されている。台風による濁流のせいであろうか。この小田川の下流は今年,近年経験のない台風被害を受けている。
小さな橋を渡っているとき,川面にオシドリの群れが十数羽,泳いでいるのが見えた。静かな流れである。

駐車場 → 天神社 → もみじ橋 → 砂防公園 → 歌碑 → 小さな橋 → 駐車場

(2018年11月15日 木曜日 晴れ)


案内板には以下のような説明がある。

天神社

天神社創建年代は詳(つまび)らかではないが,「天神社誌」に次の様な話が記されている。
「延喜元(901)年菅原道真が太宰府に左遷される途中播州曽根(現兵庫県高砂市曽根)に立ち寄り,自らの像を刻んで『我を信仰ある所に落ちよ』と投げ上げた。像は当地に飛来し,これをみつけた村人たちによって祠(まつ)られ,以後天神社は吉井の氏神として信仰された」
ここに書かれた伝説のすべてを信じる事はできないが,曽根にも道真の伝説を残す曽根天満宮があり,幕末ともに一橋藩領であった吉井と曽根の関係を示しているのではないかと考えられる。
また,文明年間(1469~1486)に画聖・雪舟が天神社に詣で,そこに祠られていた道真の肖像画を天神山の重玄寺に持ち帰ったと言う。この伝説の画幅は昭和55年に重玄寺(芳井町吉井)の宝物の中から発見されて話題を呼んだ。
本殿・延宝三(1975)年,拝殿・文政四(1821)年,弊殿は大正四(1915)年の造営。例祭は十月の第四日曜日に行われている。

平成17年3月 井原市教育委員会

丸亀城


妻から丸亀市内のひまわりセンターまで物を届けるようにとの要望があり,通常ならば車でいくところ,本日は晴天であるので,散歩がてら歩いていくことにした。

土器川に架かる丸亀大橋の手前で,国道11号線を横断し,11号線に沿う歩道を西に下る。ガソリンスタンド脇を高津方面に向かう。ここから丸亀中心部に向かう主道路は歩道が整備されていないため,丸亀城に向かう生活道路を進む。

数名の児童らと付き添いの教師らしい集団が前を歩いている。揃いの運動服を着て,和気あいあいとしている。お城までいくのであろうか。私も周りの風景を楽しみつつ,ゆっくり後をついていく。

私は労災病院へ行く道に曲がり,児童らと別れる。労災病院から大手前高校を経て,ひまわりセンターに辿り着く。妻から預かった物をひまわりセンターの事務室に預ける。ひまわりセンターでは年配の人々がトレーニングセンターでさまざまな運動に励んでいる。

帰りは久しぶりに丸亀城によって帰ろうと,ふと思う。

丸亀城は私が中学生であった頃は木々が一面に茂り,下からは天守閣がわずかに見える程度であったが,いつのときか,名物の石垣がよく見えるようにとの配慮から,お城の上半分の木々を切り倒した。そのせいで,下からの見栄えはよくなったもののうっそうとした感じはすこし薄れた。

中学生の頃,市役所の横に洗心館という柔道場があって,そこで柔道のクラブ活動をおこなっていた。柔道に飽きたときは,トレーニングと称し,柔道着を着て,お城を数名でよくぶらついていたものである。あの頃と今ではお城も随分変わったようにも思えるし,変わらない部分も多い。

お城の遊歩道を歩いていると,石垣の上から大きい声がする。見上げると,来るときに出会った児童たちと同じ服装をした児童たちであった。はやく来た児童たちがさっそくお城に登り,後から来る児童たちに声を掛けているのである。

遊歩道を進むと,前から同じ学校の児童たちが数名の集団でやってくる。先生らしき人が「こんにちは」と挨拶してくれる。優しそうな教師たちである。

自宅 → 丸亀大橋 → 11号交差点 → 高津交差点 → 労災病院通り交差点 → 大手前高校前交差点 → ひまわりセンター → 丸亀城 → 高津交差点 → 11号交差点→ 丸亀大橋 → 自宅

(2018年11月2日 金曜日 晴れ)




箸蔵街道1/財田駅


讃岐財田駅から林道出会いまで

讃岐財田駅まで妻に車で送ってもらう。財田駅は無人のJR駅である。駅の中にトイレがあるので,そこで用を済ます。駅の駐車場では,自動車で2人づれの登山者が既に来ており,私より先に登りだした。

駅前の道を右に進む。周りの家は大きな構えの家が多い。踏切を渡り,四国のみちの標識にしたがって進む。周りには田畑が広がっている。稲は刈られた後であり,ネギが植えられた畑が見える。どの田畑も猪防止柵を設けている。舗装の道路から山道に入る。山道にも猪防止柵がしている。

それを進むと百丁石の案内板がある。この先から箸蔵街道が始まるというか,終わる。というのは,百丁石の番号は箸蔵寺から始まり,財田で終わっているからである。

すぐに工事用の舗装道路に出る。この上に砂防ダムがあり,その工事のためにつけられた道路である。砂防ダムは既に完成しており,周辺は静かである。

砂防ダムの手前から再び山道に入る。しばらく急登が続く。この辺りは落石が多いようで,危険防止を呼び掛ける案内板を多く見かける。急坂を登ると,少し坂が緩やかになる。そのまま進むと林道出会いに達する。

8:00 讃岐財田駅 → 踏切 → 百丁石案内板 → 8:50 林道出会い

(2018年11月10日 日曜日 快晴)


百丁石案内板には以下のような説明文が書かれている。

百丁石(ひゃくちょうせき)

明治8年(1875年)から明治10年(1877年)にかけて,大久保諶之亟(おおくぼじんのじょう)が太鼓木から石仏の中腹に6尺(1.8メートル)の新道をつくりました。この道は新街道とか太鼓街道ともいわれています。ここ荒戸には今も「箸蔵寺百丁」の道標が残っており,馬子唄や鈴の音がこだました往時の様子が偲ばれます。

これは,旅人に箸蔵寺(はしくらじ)までの里程を示してくれた丁石で,大きくて立派なものです。1丁は約109メートルであることから,この百丁石から箸蔵寺まで11キロほどであると,この丁石は教えてくれています。

道中には,まだ丁石が残っているところがありますので,ぜひさがしてみてください。

平成13年5月 香川県

また,砂防ダム下の山道入口には以下のような箸蔵街道の説明案内板がある。

箸蔵街道(はしくらかいどう)

箸蔵寺(徳島県池田町)は,こんぴらさんの奥の院とも呼ばれ,こんぴらさんに参拝した人は箸蔵寺にもお参りしたものです。箸蔵街道はこうした参詣人(さんけいにん)のための街道として栄えた道で,阿波街道の猪の鼻(いのはな)越えと共に,当時の重要な交通路でした。

毎日,二,三十人ずつの人が列をなしてこの街道をつぎつぎと行き来したそうです。また,農繁期前後には何百頭もの借耕牛(かりこうし)が鈴をならして通ったといいます。

二軒茶屋と呼ばれているところは昔茶屋が二軒あり,ほかに民家も二,三軒あったそうです。いまでは,茶屋も姿を消し,たった一軒残った民家で最近まで炭焼きの老夫婦がひっそりと山暮らしの日々を送っていました。

そのほか,明治末まで荒戸(あらど)のふもとに「さいはん」という大男が住んでいました。さいはんは毎日馬の背に米六斗(90キログラム)を積み,自分は三斗を負(お)って阿波通いをしたという話もあります。

ここから2.4キロほど上ったところには眺望のすばらしい休けい所があり,また,二軒茶屋から箸蔵寺の方にむかって約2キロほど行けば馬除(うまよけ)という山あいの集落もあります。

昭和61年3月 香川県

箸蔵街道2/林道出会い


林道出会いから展望休憩所まで

林道から木の階段状の山道が目に入る。それを登ると,すぐに小さなガレ場があり,ガレ場を通り過ぎたところにバイク,自転車防止柵が置かれている。このガレ場にはバイクが登ってくるのかもしれない。

木々の間から林道が見える。この辺りから左側が急斜面の山道が続く。少し平らな山道になったかなあと思っていると,再び左右が崖状態の山道になる。心細くなり,少しの物音にも敏感になる。ガサ,ゴソという音が左の斜面下から聞こえてくるので,猪に出会うとおっかないなあと思いつつ,恐る恐る下を見つめていると白いものが見える。よく見ると人が二人斜面に張り付いている。山菜か茸を採っているのであろうか。

そうこうしていると,見事な尾根道に出てきた。平らな道がしばらく続く。左右は木が茂っているため,見晴らしはないが,明るい木のトンネルをくぐっているようである。
再び,普通の森の山道に入る。少し登っていくと,再び見事な尾根道が現れた。たぶん,この部分は箸蔵街道のハイライトであろう。

少し急な斜面を登ると,展望休憩所の道標に出くわす。讃岐財田駅まで 3.4km,二軒茶屋まで 2.6km,箸蔵寺まで 8.0km,猪鼻峠まで 7.0km と印している。展望休憩所は脇に少し入り込んだところにある。

8:50 林道出会い → 2つの見事な尾根道 → 9:40 展望休憩所



箸蔵街道3/展望休憩所


展望休憩所から石仏峠まで

展望休憩所は立派な施設であるが,残念ながら展望がきかない。箸蔵街道は素晴らしい自然を有しているが,どこも展望がきかないのが残念である。休憩所の一画に野鳥の案内掲示板がある。高度のせいか,大高見峰に登ったときほど,野鳥の声がしなかった。

展望休憩所を後にして,尾根筋の道を登る。快適である。しばらくすると,こう配が急になる。ピークに近づいた印であろうか。六十八丁石が目に入る。百丁石の道標はほとんど見当たらなかった。箸蔵街道全体でも数個見つかるかどうかというくらいである。

森が明るくなり,前に薬師さんの案内板が見えた。案内板によると,薬師さんは大きな岩の上に鎮座しているようであるが,岩の上にはそれらしいものはない。

薬師さんから少しいくとそこが石仏峠である。石仏峠から阿讃山脈への縦走コースが延びている。

9:40 展望休憩所 → 六十八丁石 → 薬師さん → 10:25 石仏峠

薬師さんに関するつぎのような案内板がある。

薬師(やくし)さん

岩の上約3メートルのところに,薬師如来像が祀ってあります。正面に薬師如来が浮き彫りされており,「薬師/天保15年/辰2月吉日」と刻まれていることから,江戸時代のものであることは推測されますが,その由来,伝承等については,はっきりしたことは分かっていません。
むかしからこの付近は交通の難所であったため,阿讃の峠を越える旅の安全を祈願して祀られたものであることが想像されます。

平成13年5月 香川県

箸蔵街道4/石仏峠


石仏峠から二軒茶屋まで

石仏峠の道標によれば,尾根伝いに少し行ったところに,石仏が鎮座しているようであるが,そこには行かずに先に進む。石仏峠には六十五丁石の道標がある。

尾根道を進むと,さらに六十一丁石の道標が見えた。尾根道で分岐しているところがある。分岐道は再び合流する。分岐した道の路面をよく見てみると,車のわだちの跡が見えるから,たぶん工事用に作った道ではなかろうかと想像してみる。

尾根道をさらに進むと五十七丁石の道標がある。このあとは,ひたすら尾根道を進む。すべて下りであるため,気楽な散歩気分である。

二軒茶屋に近づいたころ,竹林があった。いままで通過した山道は雑木林か,杉の植林した林がほとんどである。竹林があるということは,人間界に近づいた印であろうか。
そのまま進むと,二軒茶屋に行きつく。

10:25 石仏峠 → 尾根道 → 11:10 二軒茶屋



石仏峠にある昔話の説明案内板の内容は以下のとおりである。

峠(とうげ)の石地蔵狸(いしじぞうだぬき)

むかしむかしの話じゃ,讃岐(さぬき)の国に住む作造という者が,阿波(あわ)の国にある親せきの家に行ってごちそうになり,つい話がはずみ,帰りがおそくなってしもた。峠にさしかかった時,うしろの方からさっきわかれてきた親せきの者が「おーいおーい,待ってくれ」と追いかけてきたのじゃ。「じつは,わかれたあとでおもいだしたのじゃが,おまはんひとフロあびてゆっくり帰ってくれ」とせっかく山道を追ってきてくれたので作造はこころよくひきかえしたそうな。そしてフロに入っておると,親せきのものが,しんせつに背中を流してくれたそうな。
そこで,次に親せきのものがフロに入ったので背中を流してやったのじゃが,いつまでたってももうよいと言わんのじゃ。ゴシゴシ,ゴシゴシ,いくらすっても返事がない。フウフウいいながら一生けんめいに背中をこすっておると,うしろで「これこれおまはん何しとんじゃ」と声がするのでふりかえってみると,夜はすっかり明けて東の空はほのぼのとしらんでおった。声をかけたのは山仕事に出かける炭やきだったのじゃ。なんと作造は峠にある石の地蔵さんの背中を一生けんめい手ぬぐいでこすっておったのじゃ。これは峠に住むしょうわる狸(たぬき)のしわざたといううわさが広まってから,峠を通る人もいなくなってしのたそうな。

昭和61年3月 香川県

箸蔵街道5/二軒茶屋


二軒茶屋から馬除(うまよけ)集落跡まで

二軒茶屋でおにぎり2個だけの昼食をとり,10分後に二軒茶屋を出発する。道を進むとすぐに右手に採石場につき立ち入り禁止の看板が目に付く。地図で確認すると,山肌が相当削り取られているような地形になっている。

さらに進むと,猪鼻峠に向かう「四国のみち」と箸蔵寺に向かう箸蔵街道の分岐点に到達する。分岐点を左に進む。

ここから先しばらくは,山の中腹をトラバースする道である。送電線の鉄塔が峯の上に見える。トラバース道は右手が山側,左手が谷側になる。
トラバースを終えると舗装林道に出る。舗装林道を数十メートル進むと,左から再び山道に入る。

すこし行くと馬除(うまよけ)集落跡に着く。

11:20 二軒茶屋 → 四国のみち分岐 → トラバース道 → 12:00 舗装林道分岐 → 馬除集落跡



二軒茶屋の案内板には以下の説明がある。

二軒茶屋

ここには,もともと二軒の宿があり,宿泊と茶の接待をしていたところから,「二軒茶屋」という名がついたといわれています。一説によると宿の名前は大国屋と福島屋であったそうですが,七,八十年前にはもうすでにこの二軒の旅館はなかったといいますから,それ以前のかなり昔のことだと思われます。
当地出身の服部(はっとり)国高さん(65才)の話によると,服部さんがものごころついた頃,左図のAのところには,くさぶきの大きな家があり,そこでは,旅人に茶の接待をし,宿泊もできたそうです。この家は昭和30年頃まであったようです。
昭和3年トンネルが完成し,鉄道が通じるまで,ここを通る人は多く,特に春と秋の「はしくら市(いち)」の時など,かなりのにぎわいをみせていたようです。

昭和61年3月 香川県

箸蔵街道6/馬除集落跡


馬除(うまよけ)集落跡から一升水分岐まで

馬除(うまよけ)集落とはなにか由緒のある集落名である。想像するに,昔この街道を行き来していた馬はこの集落で人と行き違っていたのであろうか。

集落自体はすでに廃墟になっている。集落跡を出ると,ゴミが右手に捨てられている。山道には車のわだちの跡が付いており,頻繁にここまで車が乗り入れているようだ。

山道を進むと,一升水分岐に至る。最初の分岐で,右に行くと箸蔵寺へ至る。左に行くと,その先にまた分岐があって,柳沢集落へ至る道と一升水に至る道に分かれている。一升水へ行く山道の端には一升水への道標がある。

馬除集落跡 → 12:25 一升水分岐



箸蔵街道7/一升水分岐


一升水分岐から車両通行止め分岐まで

一升水分岐を後にして,杉の間の山道を下っていくと,二十三丁石が目に入る。この道標は箸蔵寺江という字が大きく彫られているもので,特別に寄進されたものでであろう。

山道を下る。山道の両側の山林はあまり手入れがされていないようで,倒木があったり,小規模ながけ崩れがあったりする。また,倒れた木もそのままにされているものが多い。路面がセメントの山道に差し掛かると,左手に車両通行止めの道がある。

12:25 一升水分岐 → 13:20 車両通行止め分岐



箸蔵街道8/通行止分岐


車両通行止め分岐から箸蔵寺まで

道の路面がセメントに変わってすぐに,左手に鎖の車両通行止め道が見える。セメント道を真っすぐに下ると舟原の集落に行きつき,そこからも箸蔵寺に行くことができる。車両通行止めの道は箸蔵寺への近道のようである。道の片側に壊れかけた「はしくら寺」への道標があるが,見過ごしやすい。なお,このルートは国土地理院の地図には表記されていないので,注意されたし。

道は幅広いが,途中,沢を渡るところで,石が崩れている個所があった。また,一か所,土砂崩れで,道が土砂で半分塞がれているところがあった。雨の日や,その直後の通行には注意が必要と思われる。水神が祭られているところを通り過ぎると,すぐ箸蔵寺の裏手に出る。「遍路道」との道標がひそかに建てられており,箸蔵街道の入り口を示す。

八十八か所御砂踏み場の裏手から,その横を下に伸びる林道がある。お寺の作業用の自動車はここから登ってくるのであろう。御砂踏み場は静かな場所で,周りを石仏が囲み,中は楓の木が植えられている。境内を進むと多くの建物の間に,寒桜と銀杏の木が植えられているところがあった。寒桜(ジュウガツザクラ)が満開であり,その後ろに銀杏が紅葉し,見事であった。箸蔵寺本殿にお参りし,ロープウェイで下山する。

13:20 車両通行止め分岐 → 13:50 八十八か所御砂踏み → 箸蔵寺本殿