小説と映画

最近,青春小説とその映画を読書し鑑賞した。吉田修一の「横道世之介」とリリーフランキーの「東京タワー」である。「横道世之介」はずっと昔に読んだが,病院に入院しているとき,その続編が出版され,妻に買ってきてもらった。「続横道世之介」も「横道世之介」に劣らず面白く読んだ。退院ちかくになり,病院内の待合の図書置き場をのぞいていると病院備え付けの図書として「東京タワー」が置いてあり,この本ははじめて手にするものであったが,これも面白く読んだ。

退院して,パソコンをさわっているとユーチューブに「東京タワー」がアップされていた。また,「横道世之介」はテレビで鑑賞した。

「東京タワー」が自伝的小説であるという点を除けば,両者とも青春時代の新鮮さ,苦悩を描いたもので,設定はよく似ている。しかし,両者を鑑賞したとき,違いがあることに気がついた。

本の面白さでは「横道世之介」の方が優れていると思う。ページを読み進めるとき,次の展開がどうなるのだろうか想像するだけでたまらない。一方,「東京タワー」の本は読み進めるのに躊躇というか,苦痛をともなった。この違いは文章のうまさ,構成の巧みさによるのかもしれない。

ところが映画の方になると,俄然「東京タワー」の方が面白いのである。「東京タワー」の自然なストーリー展開が映画にうまく生かされている。一方,「横道世之介」の映画はストーリーのわざとらしさがすごく気になった。小説ではそういうところがむしろ面白く感じられたのに対し,映画化するとそれが嫌味になるのである。これには私自身驚いた。

小説の名作が必ずしも映画の名作にならない典型なのかもしれない。

(2019年9月19日 木曜日 曇り)