椎尾長炭道3/金剛院


種子の池から長炭橋まで

種子の池で昼食をとり,15分後,出発する。ここから,再び,林道に入る。車も通らず,静かな道である。しばらく行くと,金剛院集落が見えた。案内板があり,ここから金剛寺が見えると書いてあるが,どの建物か分からない。どれも民家のように見える。

林道を外れ,金剛院集落へ向かう小道に入る。地図で確認しながら,金剛寺を目指す。途中,目の不自由な若者と出会う。散歩しているらしく,白杖を突いている。すれ違うとき,こんにちはと挨拶すると,気持ちのいい声でこんにちはと挨拶を返してくれた。
金剛寺は山間の平地の中ほどにあり,正面からは寺院らしいが,中の本堂は古びた民家とあまり変わりない。誰もいない様子である。本堂にお参りし,金剛寺を出る。

金剛院集落をゆっくり下っていく。集落の出口あたりに大柞池という大きな池があり,そのほとりに3体の地蔵が並んで鎮座している。お地蔵さんにお参りし,さらに下る。
大きな道路に出る前に,立派な石の常夜灯があった。電線がその常夜灯に引き込まれているから,まだ現役なのであろう。石台には明治の時代に作ったとの文言が刻まれている。

2車線の道路に出,長炭橋を目指す。長炭橋は工事中で,自動車は通れないようになっているが,歩行者は通れる。妻に迎えに来てもらう手筈になっているが,さて,橋のどちら側で待ち合わせたらよいものか,しばらく思案する。

12:00 種子の池 → 12:30 金剛院集落入口 → 金剛寺 → 13:20 大柞池 → 常夜灯 → 14:00 長炭橋


金剛院集落が見渡せる道の脇には,つぎのような案内板があります。

金剛院(こんごういん)部落と修験道(しゅげんどう)

ここから金剛寺を眺めることができます。

金剛寺を中心とする金剛院部落の地名はすべて仏教に因(ちな)んだもので,左の地図のように部落を取りまく峰や峠もすべて仏縁地名であるといえます。
金剛院部落の仏縁地名について考える一つの鍵は,金剛寺の裏山の金華山(きんかさん)が経塚群(きょうずかぐん)であるということです。

経塚は修験道との関係が深く,このことから金剛院の地域も,平安末期から室町時代にかけて,金剛寺を中心とした修験道の霊域(れいいき)であったと思われます。各地から,阿弥陀越(あみだごえ)を通り,法師越(ほうしごえ)を通って部落にはいった修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ,金剛寺や妙見社(みょうけんしゃ)(現在の金山(かなやま)神社)にこもって,看経(かんきょう)や写経(しゃきょう)に努め,埋経(まいきょう)を終わって後から訪れる修験者にことずけを残し,次の霊域を目指して旅立って行ったのでしょう。

昭和63年3月 香川県

また,金剛寺の前には,つぎのような案内板があります。

石仏(せきぶつ)山金剛(こんごう)寺

弘法大師が高野山開基以前,全国各地に清浄な聖域を求めて大寺院を建立しようとしていたところ,この地にその建立を試みたという話が伝えられ,金剛院(こんごういん)という部落名や部落内の仏縁(ぶつえん)地名もそれによって生まれたといわれています。

金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で,金剛院金華山(きんかさん)惣(そう)寺と称していたといわれ,楼門前の石造十三重塔は,現在は上の三層が欠けていますが,鎌倉時代中期に建立されたものです。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれ,各所に経塚(きょうずか)が営まれており,山全体が経塚だったと思われます。昭和27年の調査で発掘された陶製の経筒(きょうづつ)などが,当地に保存されています。部落の仏縁地名や経塚の状態から見て,当寺は修験道(しゅげんどう)に関係の深い,聖地であったと思われます。

昭和63年3月 香川県