大高見峰


大高見峰(おおたかみぼう,たかんぼさん)は丸亀市南部に位置する,標高504mの山である。城山(しろやま),猫山(ねこやま),大高見峰で連山を構成し,城山,猫山が三角形の山であるのに対し,大高見峰は台形の形をしている。

大高見峰への登り口は西側の城山,猫山を縦走するものや北側の勝福寺からのもの,北東側の高見峰神社を経由するものなどがある。

この山には一昨年,勝福寺ルートから妻とチャレンジし,途中断念した。中腹の駐車場まで軽トラックで行き,石の鳥居がある道を登っていったのであるが,途中で登山道を見失い,引き返したのである。

今回,再チャレンジするにあたり,前回のチャレンジでは登り口を間違えたのではないかと考えた。すなわち,石の鳥居から登るのではなく,少し林道を上り,そこから山に入るのではと考え,そのようにしたのであるが,これが大失敗であった。正解はやはり石の鳥居の方を登る道である。

駐車場から石の鳥居の方には進まず,林道を上に遡った。左手に注意しながら進むと,山に向かって人が通った山道らしきものが見えたので,そこから山の中に進む。踏み跡は確かにあり,また,あまり下草が生えてないため,ここを進めば縦走路に出られるだろうと楽観する。

少し進むと,傾斜が急になり,下草はないものの低木の枝が進路を塞ぐ。不安な気持ちが少し起きる。踏み跡は確かにあるため,そのまま進む。

1時間ほどで小ピークに出る。時間がかかりすぎているが,後戻りする気になれず,そのまま進む。踏み跡の前に1メートルほどの高さの枝が横に伸びて,道を塞ぐようになり,この踏み跡はイノシシの踏み跡でないかと思うようになってきた。1メートルほどの枝の上部を乗り越えられず,仕方なく四つん這いになって枝を潜る場面も多くなった。

登り始めて2時間近く経って,斜面が緩やかになってきた。風の音が大きくなり,尾根に近づいた印象である。踏み跡は逆に不明瞭になり,どちらに進めばよいか,分かりにくくなる。そうこうしていると尾根の縦走路に出くわすことができ,一安心する。

登って来たルートを地図上で類推すると,小高見峰に通ずる尾根を登って来たのであろう。今いる縦走路の位置が小高見峰の西か東か,分からないがいずれにしろ左側(東方)に行けば,大高見峰に行きつくはずであるので,そちらに進む。

縦走路はしばらく下りになり,鞍部にて,鳥居方面からの登り道に出くわした。その後はずっと登りで,途中,送電線の鉄塔がある。それから少し進むと,大高見峰の頂上にでる。頂上は笹が一面に茂り,まわりは木があって,見晴らしはない。

そのまま,もう少し進むと高見峰神社に行けるが,少し疲れたので行くのはやめ,小休憩した後,下山する。来た道を縦走路の鞍部まで行き,そこから石の鳥居方面に降りる。急斜面が続き,滑りやすいが,踏み跡はしっかり付いている。途中,沢を横断するところがあり,前に来たときはここで道が分からず引き返したのであった。

沢を渡り,少し下ると幅が1メートルほどの道になり,石の鳥居に至る。

11:00 駐車場 → 12:10 小ピーク → 12:50 縦走路との交点 → 12:55 縦走路の鞍部 → 13:00 送電線の鉄塔 → 13:15 頂上到着 → 13:25 頂上出発 → 13:40 縦走路の鞍部 → 14:35 駐車場

(2018年10月30日 火曜日 晴れ)



駐車場には大高見峰の以下のような説明案内板がある。

天狗伝説のふる里の霊峰
高見峰の歴史と伝説

名称

高見峰は古来より鷹峰とよばれてきたが伝承によれば,鎌倉時代か室町時代(800年~400年前)より修験道山岳信仰の霊山となり行者集団の統轄者大高見坊天狗の名が山の名称になったと言われている。

讃岐の四大天狗伝説

白峰の相模坊天狗
五剣山の中将坊天狗
象頭山の金剛坊天狗
鷹峰の大高見坊天狗
古くは高見峰-高鉢山(綾上)大滝山に至る修験行者ルートがあった。高見峰山頂東に現在も天狗大高見坊大権現を祀る成就社がある。

福成寺に伝わる天狗伝説古文書

今を去る460年昔天分13年(1544年)3月18日の夜六代住職圓覚が勤行の妨害をしたとして天狗の腕を切り落としたと言う福成寺側の記録が今も残されている。
真言密教を奉じ祈祷や呪術に専念する高見峰の修験者集団と,かつては真言宗であった福成寺が応永3年(1394年)幡多惣左衛門により浄土真宗に改宗したとして天狗側より抗議があり,常に諍があったと言われている。

神功皇后と湯舟伝説

人皇第十二代仲哀天皇のお妃神功皇后は天皇と九州の熊襲御征西に同行,天皇の陣中での崩御後神託により武内宿弥らに助けられ遠く海を越えて新羅(しらぎ)に遠征(俗に言う三韓征伐)され,築紫に御帰還後,後の十五代応神天皇を生みおとされたと伝えられ,大和に向かわれたと言う伝承がある。
ふる里の聖なる山高見峰の懐にある湯舟の地名が遠く大和時代にかかわりを持つと思うと限りないロマンを覚える。

湯舟城(栗隈城)

城跡は湯舟山上にあって城主は初代長尾大隅守の四男田村上野守親光であり,大隅守が高屋の役白峰合戦の軍功により応安元年(1368年)栗熊・岡田・長尾・炭所一帯を新領地として詫間領より移り,四男に栗熊を治めさせた。
天正7年四国制覇を夢みる土佐の長曾我部元親の野望の前に遂に屈し西長尾城と共に落城,二百年余りの歴史を閉じている。

金掘場(かなほりば)跡

明治20年頃の試掘した跡で採掘した跡ではない。鉱口は四ケ所現存する。

平成12年8月吉日 栗熊東生産森林組合
(ここには個人名,電話番号が記されているが,プライバシー保護のため略す)